Writings


「第5回オルレアン国際20世紀ピアノ音楽コンク-ルに参加して」


 去る2月下旬から3月初めまで久しぶりにヨ-ロッパへ旅行し、フランスのパリから南西へ120キロの所にあるオルレアン市で行なわれた、今年で5回目のオルレアン国際20世紀ピアノ音楽コンク-ルに参加して、入賞することが出来た。そのことについて書いてみたい。
 私にとって、このコンク-ルを受け、そして賞をいただくことが出来たということは、今までになくとても重い意味があった。特に6年前から京都の大学で学生を教えながら、コンサ-ト活動を続けているのだが、35歳というある程度成熟したア-ティストとしての自らを改めて問い直したかったということがある。また、コンク-ルの演奏曲目が学生時代から弾き馴染んできたものではなく、全て近年興味を持って独学したものであったこと(つまり先生のレッスンを受けたものではない)ということもあり、結果的には一応満足している。それに、ドビュッシ-などフランスの作曲家の作品を、その生まれた国で演奏出来、たくさんの人々に喜んでもらえたということはとても大きかった。
 このコンク-ルは今回で5回目になるが、以前から優れた日本人のア-ティストを輩出しているわりには(例えば、ブ-レ-ズが創立したことで有名なアンサンブル・アンテルコンタンポランで活躍中の永野秀樹氏、フランス在住の水村さおり氏、浦壁信二氏、藤原亜美氏、など)日本での一般的な知名度は今一つということもあるので、少しこのコンク-ルの特徴も含めて書いてみたいと思う。(その特徴があったからこそ私も参加してみたいと思ったのである・・)
   まず、今回このコンク-ルの課題曲目は、1890年代に作曲されたフォ-レ、スクリアビンの作品以外は全て20世紀と21世紀の作品だけで成り立っているということである。その中には、昨年フランスのパトリック・バ-ガンという作曲家によってこのコンク-ルのために書かれた『音程』という、5曲から成るとても技巧的なエチュ-ド、そして1955年以降生まれの作曲家による(未出版でもよいとされる)余り一般に知られていない作品を紹介することも含まれている。今や20世紀の古典ともいえるシェ-ンベルク、バルト-ク、ストラヴィンスキ-、メシアンやリゲティはもちろんだが、それ以外にも演奏者の個性にあった幅広いレパ-トリ-から選ぶことが出来る。私は演奏順が最後だったこともあって練習に忙しく、残念ながら余り他の参加者のステ-ジを聴くことが出来なかったが、みなそれぞれとても個性のあるプログラムだったようである。
 それから、年齢制限が40歳までということで、私も含めて、すでに大学で教えているア-ティストや、結婚して家庭を持っている人も何人もいた。内容から言っても10代の為のコンク-ルというよりも、もう少し、大人の音楽家の為のコンク-ルといえると思う。
 また、このコンク-ルでは、1、2、3位と言うような順位を設けておらず、最終審査に残る3人それぞれに複数の賞を与えている。これは、芸術に於ては本来当然の在り方であろう。例えば、今回の本選では、3人のピアニストが、リゲティの協奏曲の抜粋、メシアンの異国の鳥たち、そして(私の場合)ヤナ-チェクの左手のためのカプリッチオを演奏したのだが、これだけ異なるレパ-トリ-による演奏にどうやって順位をつけられるというのだろうか? 例えば一人の作曲家の名を冠した他のコンク-ル(それはそれで、もちろん重要な存在意義があることを承知の上であえて言うのだが)などによく見られるように、例えば皆が殆ど同じ曲を演奏することによって生じる、非芸術的な、無意味な競争心をあおり立てるというようなことがはるかに少なく、自分自身の興味、個性にふさわしい曲目を選択し、演奏することが出来る。
 今回私が戴いた賞は、リカルド・ヴィニェス賞(1900~1950年のスペイン音楽の演奏に対して)、モ-リス・オアナ賞(M・オアナの作品演奏に対して)、それからナディア・ブ-ランジェ賞(1900~1950に作曲されたピアノ作品の演奏に対して)の3賞であった。コンク-ルではリゲティや武満など20世紀の後半の曲も演奏したが、特に19世紀後半から20世紀前半の作品が好きで、多く演奏したい私にとっては、とても嬉しいことであった。また、M・オアナのピアノ作品は、日本ではまだそれほど広く知られていないが、とても面白いので更に演奏していきたいと思っている。練習曲の11番12番という打楽器とのエチュ-ドは、パ-カッションの楽器を準備するのがなかなか大変で実現が難しいが、この機会にフランスで演奏できたのは収穫であった。
 ところで本選では、リ-トの伴奏、前述の打楽器とのアンサンブル、そして協奏曲と3本立てになっていて、本選前二日間は一日中練習とリハ-サルという感じであったが、このリ-ト伴奏(ドビュッシ-の3つのマラルメの詩による歌曲集、ウェ-ベルンの作品25、ストラヴィンスキ-の3つの日本の和歌による歌曲集)も、とても面白かった。
 今回の3人のファイナリストは中国系カナダ人のWinston・CHOI(24歳)、グルジア人の女流ピアニストNino・JVANIA(26歳)と私。一番賞金の多い賞、CDを作ることが出来る賞は、Winstonのものになった。これは、彼の予選でのプログラム(例えばエリオット・カーターのナイト・ファンタジーズとかチャールズ・アイヴスの第2ソナタからの抜粋)、本選でのリゲティの協奏曲といった、とても意欲的なプログラムを見れば十分納得できることであると思う。彼と私は、ファイナルに残ってからずいぶん話もしたが、非常に短期間でこれらの作品を勉強し、自分のものとしたようだ。本選は、オーケストラの問題やリハーサルが少ないと言うこともあり、彼にとっては少々不本意な演奏だったようだが、リゲティのために本番前は10時間も練習した、と眼を赤くして言っていた。そのエネルギーと、彼のある種のこだわりの無さに私は感心し、また、心から拍手を贈った。ちなみに、このCD録音のオファーは、ユニークなプログラム、つまり録音が余り出ていないような作品を素晴らしく演奏した人に与えられるというものである。だから、20世紀の古典、バルトークやグラナドス、ストラヴィンスキー、武満などを中心にしたプログラムの私は最初からこの賞は期待していなかったが(?)、しかし実は、ヴィニェス賞は密かに狙っていたのだ!
 今回は、最初50人ほどの応募があり、書類審査で15カ国の39人になり、実際に演奏したのは30人前後だったと思う。2次で14人になり、本選には3人が残った。ところで前にも書いたが、1次あるいは2次までしか残れなかった人たちの中にも、クセナキスのすごい演奏をした人、テープとの音楽を弾いた人、シュトックハウゼンでコンピューターを使った人、自身が作曲家で自作自演をした人等々、とにかく皆それぞれユニークで、本当に、聴衆の一人として聴いてみたかった。
 審査員は、委員長にスペインの作曲家のルイス・デ・パブロ氏、アメリカからピアニストのスティーヴン・ドゥルーリー氏、日本からはピアニストの木村かをり氏、他フランス、アルゼンチン、イタリア、ドイツ等から作曲家やピアニストの先生方がいらしており、連日朝から晩まで、恐ろしく緊張感の高い音楽が連続するステージを疲れも見せず審査しておられた。私も普段は教える立場からよくわかるのだが、演奏を聴く義務があるというのは、実は想像以上に大変なことなのである。良い演奏ならばいいのだが、その逆の場合、ともすると音は暴力にも等しくなることがある。小説のように、こちらの都合で一旦中断というわけにはいかない。審査員の先生方にはいろいろな意味で心からの敬意を表わしたい気持ちで一杯になるものである。
 全体のコンクールの雰囲気は、とても温かく、オルレアンのコンセルヴァトワール、そして市自体が相当に力を入れて盛り上げていた。(メインストリートの至る所にコンクールのポスターが貼られていた。)また、このコンクールは多くの企業スポンサー、サポートも得ている。例えば、FNAC、 SOCIETE GENERALE、 ルフトハンザ、日本の企業では日本航空、ヤマハ、日立など、また音楽関係では出版社のSALABERTやJOBERT社、さまざまな音楽家の財団や協会などがサポートをしている。
 それにしても、30台も半ばになってから、それも大学で教えながら、自分自身もコンクールで審査をする立場になったり、試験を聴いたりしながら、演奏会もして、そしてなお今回のように国際コンクールに出場するというのは、学生の時のような、一種の気楽さも、有り余る時間というものも無く、正直言ってなかなか大変ではあった。学生にレッスンをしながらコンクールで落選するわけにはいかない手前(そうなったら格好悪い!)なおさらである・・・というのは冗談として、日頃忙しくても、なお腕を磨いていきたいものであると常々考えている。
 日本に戻ってきての生活が今年で10年、95年にスイスで演奏してから6年以上しばらくヨーロッパから離れていたが、今回もう一つ自分で得ることが出来たのは、どこにいても、内なる芸術的な発展、成長は可能なのだ、という希望と確信である。日本人として日本に住み、静かに様々な勉強と経験を積みながら、時には海外で真価を問うということが出来れば嬉しいと思っている。この情報過多の時代、私にとって重要なのは、情報はある程度知りつつも惑わされず、選ぶ力を持つということ、である。その意味で、マイペースを保っていけそうな、ここ京都は、今の私に理想的な場所であるように感じている。
 ピアノ曲のレパートリーはとても幅広く、豊かなものなのに、実際に演奏会で弾かれ、そして学生が勉強するのはそのほんの一部でしかない。私自身も20代半ばまではそうだったのだが、それだけではいけないのではないか、と今は思っている。目新しいだけがいいとは言わないが、余りにも同じ道の模倣、繰り返しは芸術にとっての死に繋がるのではないだろうか。近・現代の作品にも色々あるが、中には、本当に手の内に入るのに数ヶ月、いや数年も掛かるような複雑な作品がある。そして、それが演奏される機会が未だ少ないということと関係があるのも事実である。(きっと2、30年も経てば、それらの事情も変わっていくのだろうけれど。)繰り返し演奏していく作品と新たに取り上げる作品とのバランス、質的なバランスをとるということは、我々演奏者にとって、難しいが必要不可欠な課題であろう。私も、少しずつそれらの作品を味わい、勉強していくことが出来ればよいと思っている。近現代曲を含む新鮮な様々なレパートリーを試しつつ、いわゆるスタンダードな作品の演奏も磨いていきたい、そして、それが聴衆の方々とも喜びを分かち合うことが出来るものでありたいと願っている。