Writings
「ピアノとともに35年」
(2004年秋新聞掲載エッセイより)
私は今年で38歳、その内の35年間ピアノを弾き続けている「ピアノ馬鹿」である。
ピアノという言葉から現代の私達が想像するイメージ、たぶんそれは、黒塗りの、縦型か、横型でごつい形をした重々しい楽器といったところだと思う。しかしピアノの黄金時代、19世紀から20世紀前半位までは、ピアノといえば、通常様々な木材、特にケースなどは、マホガニー、ローズウッドなどといった銘木をふんだんに使い、それを職人が魂をこめて一台一台作っていたのであった。形もブランド毎に個性的で、あっと驚くような形をしたものもあり、鍵盤の機構(アクション)は各社競って独自のものを製造していたのであった。同じメーカーの楽器であっても一台一台が違う芸術作品であり、音には直接的には関係のない彫刻を入れたり、象嵌細工を入れたり、有名な画家に絵画を描かせているものさえある。現代のように誰もが比較的容易に楽器を買うことが出来る時代とは違い、限られた層の人々のみが手にすることの出来る特別なものだったのであろう。社会としては、現代の方がマシとは思うが、こと芸術、文化という観点から見ると、19世紀などは非常に魅力的であり、それは楽器というものを見ても伝わってくるのである。
「音」のことになると、外観以上に昔と今ではもっと変化があると思ってよいのではないか。私は現代の演奏家であり、普段は現代のピアノで、現代の聴衆の為に演奏する訳だが、演奏する作品のほぼ8割は20世紀前半までの物である。だから昔の作曲家がどのような楽器で試行錯誤していたのか、それを知らなくて良いとは考えていない。
この10月から11月にかけて、1820年ウィーン製のマテーウス・シュタイン、1846年パリ製のプレイエルという楽器を使って、ベートーヴェンのソナタ2曲、ショパンの練習曲全24曲を演奏するコンサートを、大阪、京都、東京などで開催する。シュタインは、ベートーヴェンの親しい友達でもあり、彼の持っていた1803年フランス製のエラールを、ベートーヴェン本人に頼まれて改造までした職人であり、又プレイエルは、ショパンが生涯最も愛した楽器である。
現代の最高水準の楽器の表現力は絶大である。今日の音楽作りは、鮮明さやコントラスト、鮮やかな色彩感、ダイナミズムといったものを求められている。その魅力は私自身とてもよく分かるし、その様なスタイルで演奏することの存在理由もある。今年5月にリリースされたデビューCD、リストの超絶技巧練習曲全12曲とトランスクリプションのアルバムでは、2003年製のニューヨーク・スタインウェイを選んだ。又今年6月京都市響との定期で演奏したバルトークの協奏曲第2番では、バルトーク自身が使っていたピアノにより近い、そして、普通の88鍵のピアノでは弾く事の出来ない低音があるということもあって、1990年代製の97鍵のベーゼンドルファー・インペリアルという楽器を弾いた。12月に東京で演奏するメシアンでは比較的新しいハンブルク・スタインウェイを使う予定である。
しかし、激情的な部分ばかりが強調されるベートーヴェン、感傷的な要素ばかりがクローズアップされるショパン共々、実は作曲家が創造した音は、普段私達が耳にする音とはかなり違っていたのではないか、そして演奏のアプローチも、現代の楽器に通用するやり方とは異なる手法も必要なのではないか、という疑問から今回のコンサートを計画したのである。それにしても作曲家が生きていた当時の楽器を弾いてみて強く感じることは、昔の音楽家はこんなにも繊細な楽器を弾き、作曲をしていたのか、という驚きである。秘密を打ち明けるときのような静けさ。インティメートで、最高の音響条件でもせいぜい最大で数百人の聴衆にしかニュアンスが伝わらない楽器。その代わりデリカシーと野性味を併せ持ち、「音量」と引き換えに今の楽器が失ってしまった、リュートやギターなどの楽器に近い音も感じられる。このような楽器を味わい、そして現代の調律法とは異なる調律法やピッチ(昔の方がおおむね低い)を身近に体験すると、又作曲家の別の側面が見えてくるようにも思う。
来年には、1850年代製のエラールピアノによるリスト、1920年製の、やはりエラールピアノによるドビュッシーなどの作品の演奏会を各地で行う予定である。