Writings


「プログラム・ノート」
(2005春演奏曲目解説)


 モーツァルトのイ短調ソナタについては、1778年職探しにドイツ、フランスを転々とし、各地でさまざまな新しい音楽を吸収していた最中のモーツァルトを不幸が襲い(一緒に旅していた母の死)、その絶望の中で、或いは、諦めの境地で作曲された、とされる。
 短調ということもあり、確かにそれまでのモーツァルトのクラヴィーアソナタとは全く異なる性格が与えられている。第1楽章アレグロ・マエストーソ゛の凝縮感、緊張感とコントラスト(同音反復の多い第一主題に対して、第二主題の飛翔するようなスケールの音型の素晴らしさ!!-----ちなみに、このセクション全体が、楽譜ではpになっている----- 又中間部の4小節ごとのダイナミクスの変化など)、第3楽章プレストの絶え間ない8分音符のリズムと悲壮感が強く印象に残るが、作品のバランスとしては、第2楽章のアンダンテ・カンタービレが中心となる。その第2楽章、ヘ長調のカンタービレ・コン・エスプレッショーネでは両端楽章のテンションが一旦殆ど忘れ去られるかのように、救済に満ちた響きを放ち、再び中間部では著しい緊迫感を呈する(緩徐楽章だが殆ど典型的なソナタ形式になっている)。そこでもまた、第1楽章のように、しつこいまでの反復音(レペティション)のモティーフ自体が、行き場のない、出口の見えない感覚を与えている。どの楽章でも、pp あるいはffというモーツァルトには珍しいダイナミクスが書き込まれている。このような緊張感に満ちた音楽は、ただフォルテのところは極端に強く、pのところは極端に弱く弾かれてしまいがちであるが、演奏家の側から言えば、本来は、一つのダイナミクスの中にも、フレージング、あるいは強拍と弱拍があり、リズムが生きていないといけないと思う。感情の起伏を、大きな、音量のコントラストだけに頼るのではなく(モーツァルト自身のピアノの音量の変化は比較的限られていただろうが、その中で最大限の色彩と表情があったのではないかと推測する)、明確な、しかしデリケートな色彩のグラデーションの中で表すことが出来たら、と思う。
 シューマンは幼少の頃から文学少年だった。それは、彼の父親が出版社、書店を経営するくらいであったから当然のことと思う。当時の売れっ子作家だった、ジャン・パウル、E.T.A.ホフマン(文学者、作曲家、劇場監督、裁判所の判事、というマルチタレントでもあった)などにぞっこんであったが、同時に、幼少の頃から音楽にも大きな関心を寄せていた。10歳前後にすでに作曲の試みを行っているし、ピアニストとしてもかなりの腕前であったので、父親はウェーバーに付いて学ばせたいと思ったが、ウェーバーも、そして父親も亡くなってしまった。芸術家への夢を持ち続けていたものの、結局大学の法学科に進学する。しかし大学に入ると、音楽への情熱がますます大きくなり、晩学ながら名ピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークの門をたたくことになるのである。この作品7 は、青年シューマンがパガニーニの音楽に出会い、ピアノ技法の探求とバッハの研究を行っていた頃の作曲である。この作品の前後には、パガニーニのカプリスを基にした練習曲を、作品3と作品10として作曲している。作品3の序文には、ピアノ奏法に関する見事な覚書を書いており、ヴィークについて勉強を始める以前から、独自の天才的な洞察力を持っていたことをうかがわせる。 初期の作品群をジャンル別に大きく分けると、上記のピアノの技術的な面を追及した作品のほか、アベッグ変奏曲やアレグロなど、古典的な構成を追及した作品、そして非常に断片的な、エピソード的な小品集、(こちらが一般的にはシューマンらしいと思われている、フロレスタンとオイゼビウス的作品)、例えば、パピヨン、ダヴィッド同盟舞曲集、謝肉祭などが書かれている。そしてこれらの作品の後、ソナタ第一番作品11、交響的練習曲作品13あたりから、古典的な構成と叙情性を高い次元で統合した、スケールの大きな作品が生まれてくる。
 トッカータはちょっと聴くと、チェルニーの練習曲みたいだと思ってしまう人もあるかもしれないが、実は、これほどシューマン的な作品はないのではないか。厳格な構成、16分音符の無窮動の中に、微妙なメロディーラインのデザインが各声部に散りばめられている。ニュアンスやアーティキュレーション、ダイナミクスなどは演奏者の選択にかなり任されており、又多声部的に書かれているので、それら声部毎のバランスの選択など、演奏の自由度が高い。面白い曲だと思う。
 リストのピアノソナタがリストのピアノ作品中最高傑作である事に異論を挟む人は少ないと思う。実は、作品に使われる、モティーフのマテリアルはそれほど多くはないのだが(一般的には、単一主題といわれる)、構成が余りに巧みなので30分もの間聴く者の注意を逸らさない。まるで一つの一大叙事詩を体験しているかのようである。リストは、この作品を作曲する少し前に、ワーグナーの『ローエングリン』の初演を行っている(あのトリスタンとイゾルデはまだ書かれていない)し、このソナタをワーグナーが絶賛したというが、確かに頷ける話である。全体の調性の構成を大まかに言うと、ロ短調/嬰ヘ長調/ロ長調になっているが、もちろん他の調性も現れ、又半音階、様々な旋法を用いている。大きく分けると、アレグロ・エネルジーコ、アンダンテ・ソステヌート、アレグロ・エネルジーコの3部構成(巨大なソナタ形式-----絵画のtriptychの様でもある)となっており、それぞれが一つの楽章のような役割を持っている。最初のアレグロの部分の前には、レント・アッサイの序奏があり、最後のアレグロは、嬰ヘ長調(中間部の調性)の異名同音の変ト音(曲の始めのこの主題は、半音上のト音であった)から始まるフガートで始まり、再現部に入って行く。
 1970年代にドイツのヘンレ出版社から刊行された、自筆譜のファクシミリ版は、多大な示唆を与えてくれる。初めからコンセプトは確かなものがあるが、ディテールなどは試行錯誤の後が見られ、例えば、当初最後の終わり方などは全く違ったものであった。また、ダイナミクス記号やアーティキュレーション記号などは、赤で加筆されたりしている。指使いなども多く書き込まれ、何よりも、天才の創造の過程を知ることが出来るのが素晴らしい。
 ラフマニノフは、幼少の頃は、勝手気ままに音楽を楽しんでいたが、親戚にリストの弟子であった大ピアニストのアレクサンダー・シロティがおり、彼の紹介により、名教授ズヴェーレフのもとでの厳しい訓練を経て、また後にチャイコフスキーなどの薫陶を受け、既に10代の終わりには、ロシアではよく知られた音楽家になっていた。特に晩年まで衰えなかったそのピアニストとしての能力は、今でも沢山の録音によって知ることが出来る。この作品23の前奏曲は10曲から成り立っているが、まだロシア革命勃発のだいぶ前、しかしすでにロシアの社会自体が病んでおり、ラフマニノフもその一員であった貴族社会自体が、破局への道を歩み始めていた頃に作曲されている。個人的レヴェルでは第一交響曲の大失敗から神経衰弱にかかり治療を受けた後、第2ピアノ協奏曲で立ち直った少し後の作品である。きっと長続きはしない幸せ、過ぎ行くものに対する哀愁、そしてロシアの長い冬の後の雪解け、北の地方独特の遅く来た春の柔らかな日差しにきらめく小川、などの情景を私は想像する。構成はAABA、それが楽譜4頁の各ページにほぼ対応しており、Aの部分は3回出てくるが毎回ピアニスティックに装飾が変わる。非常にラフマニノフらしい、歌曲のような作品といえるであろう。(因みにラフマニノフは歌曲も沢山残した。)
 ドビュッシーの評論(岩波の文庫本で手に入る)を読むと、とても辛らつな批判的精神の持ち主、シニカルさとインテリジェンスを持った人物だったことが分かる。この2巻12曲からなる練習曲集の序文にも有名な「指使いは自分で探せよ」「自分を助けられるのは自分のみ」などといった語句が並ぶ。1915年~といえば、亡くなる3年前、前年に第一次世界大戦が始まり、「自分はフランス人の音楽家である」、と自負心を持って楽譜にも書いたヴァイオリン・ソナタや6 つの古代のエピグラフ、2台のピアノのための「白と黒で」が作曲され、その後チェロ・ソナタ、フルート・ヴィオラとハープのためのソナタ、などの傑作たちをほぼ同時に生み出していったのであった。それに平行して忘れてならないのは、当時、病気(1909年以降、癌)と闘いながらも、ショパンのピアノ作品集の校訂を手がけていたことである。これはデュラン社から出ており、今でも手にすることが出来る。自身の病気、時代背景、それらの事柄が渾然一体となって、この特別なエチュードが生み出されたものと思う。ピアノ作品では、前奏曲集の第2巻とも共通性があるが、更に抑制された美といったものに到達していると私は感じている。どの曲を聴いても、どこか日本の美意識にも通ずるような「哀しみ」「諦め」といった要素と、シニカルなウィット、クールさが同居しており、第5番のようなエネルギーのある作品の中にもそれが見え隠れする。
 バラキレフもやはり、晩年にショパンの研究を行っており、今なお、ペータース社から、ショパンのトリオなどの校訂楽譜が出版されている。旧暦の1837年 1月2日(現在の1836年12月21日)、現在のゴーリキーに生まれ、1910年5月29日(5月16日)、サンクトペテルブルグに没した、19世紀後半のロシア音楽界の巨人とも言える存在であった。今では、ムソルグスキーやリムスキー=コルサコフの名声の陰に隠れてしまっているが、いわゆる「5人組」のリーダー的存在で、作曲家、ピアニストとしてのみならず、コンサートの企画、無料音楽学校の運営、そのオーケストラや合唱団の指揮や運営、新しい作品の紹介など、類まれな精力的活動を行った。もちろんずっと同じような活動を続けていたのではなく、1870年代には、一時音楽社会との接点を失い、精神的な危機に直面し、孤独に瞑想する日々を過ごしたとされている(鉄道会社に勤め生計を立てていた)。そして、その時期を過ぎてから後、かつての師であり、ロシア芸術音楽の祖といわれる、グリンカの作品の編纂編集を手がけ、またペテルブルグ宮廷礼拝堂楽長、ロシア地理協会民謡出版委員会会長などの公務の傍ら、多くの自作作品を改訂した。このイスラメイも1902年に改訂されている。
 もともとバラキレフはグリンカのモットー、「民族・人間が音楽を作り出す。われわれ作曲家はそれをアレンジするだけだ」という言葉をそのまま行動に移したとも言え、ヴォルガ地方、コーカサス地方まで出かけていって民族音楽の収集に努め、多様な作品を書いていた。その一つがこの作品である。