Writings


ピアニストは愉しい(ひるがえってピアニストは大変だ)
(季刊誌ムラマツ Spring 2010 No. 107)


 ある友人の話によると、マエストロ小澤征爾が「ピアニストは一番大変だよ」と仰っていたそうだ。世界的なピアニストを多数知っている大音楽家が言うのだから間違いはない。40代にもなると、音楽に限らず、ある一つの仕事を10年20年、それもアクティブに続けていくのは簡単なことではなく、様々な分野の仕事には、それぞれの難しさや苦労があるという事は、重々承知している。・・でもピアニストは大変です。本当に・・。

 スタンダードな傑作の数も凄いが、余り知られていない秘曲(これが特に最近多い・・廉価CDやネットでどんな曲でも聴く事が出来る時代になり、マイナーな名曲というのがたくさん「再発見」されて来ている)から、現代作曲家による新曲まで、レパートリーは限りなく、音符は他の楽器の何倍もあり(室内楽でも、いつも神経質になって最後まで練習しているのはピアニスト、と相場が決まっている!)、それなのにソロでは殆どの曲で暗記を期待され、という過酷さである。楽譜は分厚く、旅行鞄は重くなるのに、移動は常にいつも一人である。海外公演の際も、チケット、ビザなど、グループで取得したりすることも出来ない。オーケストラやアンサンブルの、和気あいあいとしたツアー光景は、ピアニストには程遠いものだ。
 スタンダードな曲でも、次から次へと新しい原典版が出版され、ある程度はup-to-dateな知識を持たなくてはならない。殆どの偉大な作曲家が傑作をたくさん書いてくれているのは素晴らしい事だが、少なくとも、弾いた事のある、又はある程度の知識を持っている必要がある協奏曲の数は50を下らない。古典から近代までのソナタ、他のソロ作品の数は、一体どれ程になるのだろう!!

 音符の数や目を酷使する点、総合的な知識が求められる点では、指揮者の方がはるかに上だが、自分では音を出さない、自分を100%裸にしなくても良いのは羨ましい。

 オルガニストは足も使うし、即興演奏もする必要があるが、余り暗記をする必要はない。声楽家は沢山の外国語の言葉を覚えねばならないし、オペラなんかだとリハーサルは長時間、長期間に渡って大変だし、風邪もひいてはいけない、自己管理が厳しい世界だけれど、ピアニスト程には、音符と格闘する必要はない。

 ピアニストは楽器も持ち歩けないし、演奏の失敗の責任はすべて自分に降りかかってくる。

 でも、それら全てを含めて愉しめなくては、ピアニストは務まらない。毎回違う楽器を弾くという事は、もしかしたら最高の楽器との出会いがあるかもしれない。全て一人という事は、少なくとも、ソロの曲であれば、自分の家で90%位はこつこつと準備が出来る。細部まで、自分の思考と技術的なコントロール下に置くことが出来る。音が沢山あるという事は、一つの音、トーンの表情や美しさだけでなく、曲全体、旋律線、和声感(観)、リズム等、トータルな観点からの解釈が問われるので、たとえ、体格的、肉体的に余り恵まれてなくても、他の点で色々とカバー出来る、等など。

 ピアノを職業とする大変さに閉口しつつも、それでもこの「個人主義的な」楽器から離れられないのは、恐らく、一人で楽しむ、静かな音楽との対話、楽器との対話が好きなのだろうと思う。