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CD「ソナチネアルバム」 解説A


はじめに

今回のソナチネアルバムのレコーディングには、ドイツのヘンレ社から出版されている原典版を使用しています。
従来から広く使われている選曲のソナチネ集にも、例えば、近年出版された今井顕氏編纂の原典版を始め、素晴らしい楽譜が存在しますし、ベーレンライター社からもクラウス・ヴォルターズ氏編纂による、興味深い、独自の選曲によるアルバムが2巻出版されています。
しかしながら、ヘンレ版のソナチネ集は、全3巻に分かれており、各巻にバロック、古典派、ロマン派の色々な様式のソナタ・ソナチネが収録されていて、ピアノ学習者が、早い時期から、古典的な様式(いわゆるウィーン古典派)のみならず、バロックの小規模な二部形式のソナタ、組曲の構成を持つソナタなどに親しむ事が出来ること、他方、規模の大きなロマン派のソナチネ・ソナタにも触れるきっかけともなる事、楽譜そのものに信頼性があること、等に価値があり、又1980年代に既に出版されているのにもかかわらず、未だに幅広く使われるに至っておらず、私が知る限りにおいては音源が存在しないこと、等の点で、興味深いものだと感じたのです。

第2巻「Klassik-古典派」には、1732年生まれのハイドンから1786年生まれのクーラウまで、作品としては、1760年頃の作品から1839年出版のものまでが、含まれています。今までのソナチネ・アルバムにも収録されていたハイドン、クレメンティ、クーラウ、ディアベッリ等に加え、ドイツ・オーストリアのプレイエル、ホフマイスター、エーベルル、そしてイギリスのフック、イタリアのチマローザなども入っています。

この曲集の編纂者、エルンスト・ヘルトリッヒ氏は、この曲集の曲順について、最初に、初心者でも容易に弾く事の出来る、短い作品を幾つか置き(プレイエルの6曲とフックの2曲のソナチネ)、その後(ハイドンから)については、作曲者の「生年順」に並べたと言っています。なぜなら「作曲順」に並べる事については様々な問題があるからです。
例えば、クレメンティの作品は、既に1797年に初出版されていて、その後版を重ね、1820年に第6版が出ており、その1820年版がヘンレ版のもとになっています。エーベルルの作品も既に1797年には出版されていましたが、再び手を加えて、1807年に別の出版社から出されました。
最後から2番目のディアベッリの曲は1839年に出版されていて、曲集最後のクーラウは1824年に出版されているといった具合です。1824 年から1839年の間というのは、音楽の歴史的観点から眺めると「激動の時代」で、ピアノの作品でも、メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、リストなどが、非常にユニークな、個性的な作品を書いていた時期に当たります。しかし様式的にクーラウに比べ、ディアベッリの方がより近代的で、よりロマンティックという事でもありません。これはディアベッリの意図が、革新的な作品を書くことではなく、広い層にソナタ形式というものに親しんでほしいという、教育的な考えがあり、それを優先したから、と言えそうです。
これらの作品の場合、作曲年とそのスタイルには必ずしも関連性はないという事なのだと思います。
バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、リスト、ブラームス、ドビュッシー等の天才作曲家は、それぞれが生きた時代を如実に反映していると同時に、彼らの強い個性が、時代とその枠組みを、はるかに超えてしまっています。彼ら一人一人の存在、作品1つ1つがphenomenalな訳ですから・・。その事をより強く感じる為にも、この様なシンプルなソナチネ、大作曲家と同時代人の作品を勉強する事は大切なように思います。

1800年前後から、音楽は貴族の趣味のようなものから、市民階級まで広がりました。「ピアノ」を、家庭に持つという事が、少しずつ浸透していった時期にも当たります。その結果、音楽家として一流なだけではなく、ビジネスとして、出版社やピアノ会社を経営しながら作曲をする音楽家も現れました。クレメンティ、プレイエル、ディアベッリなどです。現代のように、他の娯楽が無かったせいでしょうか、当時音楽はかなり人々の関心を集めていたようで、出版された楽譜が、世の中の注目を集める時代でした。という訳で、楽譜を買って、それを自ら読んでみる、弾いてみるという人々が増え、そしてそれが、ソナチネ集などの「初心者のための」、「難しくない」作品が沢山世に出た理由のようです。

この楽譜は「原典版」ですから、使用するにあたって、様々な角度からの「読み方」が必要になってきます(恐らくこの点が、この優れた3巻からなる曲集を、学習者から遠ざける事になってしまったのかもしれません)。
「良いピアノ演奏」に必要とされる一般的な要素、例えば、性格付け、テンペラメント、テンポ、ダイナミクス、フレージング、音色、リズム、和声の処理等と言う事以外にも、具体的に考えなくてはならない点としては、アーティキュレーションの決定、スラーの解釈と入れ方、音の長さ(書かれている音をそのままいっぱいに伸ばすとは限りません)、装飾音の判断、音の修正と補充、同じ音型が複数回出てくるときの装飾的パッセージの追加(特に1800年頃までの作品)、カデンツァ風の所での即興的なパッセージの追加、左右の手によって弾かれる音がずれる事になるルバートやアゴーギク、和音の際のアルペジォ奏法等です。
作曲家が書いた音符の修正、補充などという事は、長らく不可侵の領域とされていました(作曲家がわざとそのように意図した場合もあるとは思います)が、そのままでは平行5度や8度が問題となったり、余りにも空虚な響きのため、時々は必要な場合もあるように思われます。当時の作曲家の生活や、出版の状況からすると、作曲者のケアレス・ミスやプリント・ミスの可能性も排除できません。
またこの曲集では、通奏低音的にアウトラインをスケッチして、奏者に任せようとしたのではないか、と思われるパッセージも出て来ます。C.P.E.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン以前から既に、「自分が望む音をなるべく正確に記譜する」、という事が理想と考えた作曲家、理論家もいた様ですが、仮にそうであっても、現代の様なデジタル的な正確さとはやはり異なるものだったのではないでしょうか。

本来これらの作曲家が想定していた楽器は、いわゆるチェンバロ、ハープシコード(ハイドンやフックの曲はこれらでも、フォルテピアノでも演奏することを想定していたでしょう)、18世紀後半の5オクターヴのフォルテピアノ、19世紀初頭の6オクターヴのウィーン式アクションの完成形と言える楽器、イギリス式アクションの楽器(特にクレメンティはクレメンティ製の楽器で)、フランスの楽器(プレイエルの作品は、ウィーン式の楽器か初期のプレイエル製の楽器で)等です。加えて、もちろん19世紀初め位までは、クラヴィコードも広く使われていましたので、こちらでも演奏されていた事と思われます。

作曲者と作品についてのメモ

プレイエル
イグナツ・プレイエル(1757-1831)は、19世紀前半までは非常に有名な作曲家であり、ハイドンの弟子、しかしロンドンでは一時期ハイドンの指揮者ライヴァルとしても一世を風靡した音楽家でした。もともとはオーストリアの人でしたが、イギリスにしばらく滞在し、その後フランスで評価を得て、フランス音楽界には無くてはならない存在となりました。
今ではショパンが愛用したピアノメーカー、というイメージでしか、広く知られていない訳ですが、当時、プレイエルの作風は、非常に滑らかで純音楽的であるとされ、趣味の良さを絶賛されました。
話が脇道にそれますが、なぜ存命中は人気があっても死後は忘れ去られてしまうのか、というのはとても興味深い命題だと思います。プレイエルの、「激情」を良しとしない作風、当時の趣味の範囲内で、当時の人々の耳を愉しませようとした(理解される事を第一義に考えた?)極端に走らないバランス感覚、形式の保守性などが、現代人の耳にとっては刺激的ではないのが、その理由でしょうか。
しかし先程も前述しましたが、我々のように200年もたってから当時の音楽を味わうものにとって、その当時メジャーであったものに触れるという事は、当時の作風、趣味に直接触れる事が出来るので、かえって好都合です。
最初の6つのソナチネは、全て異なる、しかしシンプルな調性で書かれており、この曲集への導入としてとてもふさわしいものです。また後に出て来る3つのソナチネは少し規模が大きくなり、全て2楽章形式になっています。

フック
ジェームス・フックはイギリスの作曲家で、1746年に生まれたとされ、1827年にこの世を去りました。当時としては大変な長生きをした作曲家と言えるでしょう。幼少のころから音楽家として独立して自活していたと言われ、作品番号が付いていない2000曲を超える歌曲をはじめ、器楽作品、舞台音楽、オーケストラ音楽等あらゆるジャンルで、大変な多作家でした。作品番号が付いているものだけでも、150曲弱程あり、その中には、このソナチネ作品12の様に、12曲も入っているものもあります。今日とは音楽のあり方が異なりますが、教会のオルガニストとして、またヴォクソール・ガーデンズという場所で、シーズン中は毎日演奏していたとも言われます。人々を「音で楽しませる」という事に重きを置いていた作曲家で、その作風は、エリザベス王朝時代のヴァージナル音楽の伝統を受け継ぐものでもあります。19世紀の後半、20世紀のピアノ曲がそのヴィルチュオージティー追求の過程で失ってしまった、素朴さ、静けさを感じさせてくれますし、また、もともとはリュートや、他の弦楽器と密接に関係があった「昔の鍵盤楽器」の様子を思い出させてもくれます。

ハイドン
ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は、言うまでもなく、C.P.E.バッハの世代と、モーツァルト、ベートーヴェンの世代の間に位置する古典派の巨匠です。宗教曲も含めあらゆるジャンルの作品を書きましたが、特に鍵盤作品のソナタ、弦楽四重奏、交響曲に於いて、古典的な形式を、創造的な形で完成した達人と言えるでしょう。
この曲集の中で、一番作曲年代が古い(1760、又は65年以前と言われています)ものですが、様々な音楽的アイディアが、目まぐるしく、しかし自然に絶妙なバランスで現れ、形作られる様は、やはり大作曲家の作品としか言いようがありません。
この年代のハイドンのソナタは、主にチェンバロのために書かれたと言われています。1800年頃迄、鍵盤楽器の殆どは、基本的には5オクターブ前後の音域しか無く、それは人間の声、弦楽四重奏、木管楽器などのアンサンブルの音域とぴったり合致します。現在のピアノからみると音域は狭いですが、その中で、「音楽的な表現」は全て可能だったのです。逆に言えば、19世紀から20世紀の、音域の拡大というものは、音楽の骨格の面というよりも、主に音色や効果、オーケストレーションの為だったという事が言えると思います。
その意味で、古典作品を学ぶという事は、調性音楽の骨組みと構成に向かい合うという意味がありますから、その後に続くロマン派や近代の音楽を弾く場合でも、必ず通らなければならない道標になるものなのです。

チマローザ
ドメニコ・チマローザ(1749-1801)は、モーツァルトより少し年上で、存命当時イタリアのみならず、ロシアの宮廷でも愛され、また同年生まれのゲーテや、後のスタンダールに、「モーツァルトに匹敵する音楽の美」として語られた存在です。ナポリ近郊で生まれ、ヴェネチアで亡くなりました。オペラ作曲家として名声が高く、鍵盤楽器のためのソナタは、チマローザが生きていた当時は一曲も出版されなかったという事実があります。現在では、80曲以上が明らかになっていますが、いつ、どこで、誰のために作曲されたのかは謎のままです。当時も、ベートーヴェンの時代も、ショパンの時代も、著名な音楽家、特にオペラ作曲家は、イタリア人が殆どで、それはウィーンでも、パリでも、サンクト・ぺテルスブルクでも同じでした。民族音楽は別として、ヨーロッパ人の音楽の中心はオペラであり、宗教曲であり、鍵盤楽器用のソナタばかりを作曲したドメニコ・スカルラッティなどは例外中の例外です。そのような傾向に変化の兆しが表れたのは、ようやく19世紀も中頃になってからです。尚これらの作品は、チェンバロではなく、まだ当時比較的新しい楽器だったフォルテピアノのために書かれた可能性が高いのです。
この3曲の組み合わせは、編集者によるものです。変ロ長調、ト短調、変ロ長調という3楽章形式を思わせる構成になっています。

クレメンティ
ムツィオ・クレメンティ(1852-1832)はイタリアで生まれ、幼少からイギリスで教育を受け、主に鍵盤楽器作品の作曲家としてイギリスを中心に活躍したという事もあり、ドイツ・オーストリア音楽、またオーケストラ作品やオペラの作品が最もシリアスな音楽として重要視されてきた日本では、ピアノの練習曲集「グラドス・アド・パルナッスム」の作者としてしか長い間知られてこなかったとも言えるのですが、実は素晴らしいピアノソナタを60曲以上残しています。またピアノ教師として、ベートーヴェンも高く評価していたクラーマーや、ショパンとの関連がいつも指摘される(そして19世紀のロシアの音楽界に多大な影響を与えた)フィールドを育てたという、大音楽家でした。加えて、前述した通り、イギリス・ロンドンで、音楽出版社や、ピアノ製造会社とも深くかかわり、経営にまで手を染めました。ピアニストにとって、ピアノソナタは、全てとは言わないまでも、大変意欲的でクリエイティヴな作品ですし、「グラドス」も重要です。こちらについては、出来ればタウジッヒが編纂した選集ではなく、3巻からなる全100曲に目を通すことをお勧めします。その内の幾つかでも日々の練習に取り入れると、特に指の敏速な動き、独立性、多声部の演奏法の発達等に、大きな助けとなる筈です。ショパンも、クレメンティの曲を、弟子のレッスンに用いた事が、良く知られています。

ホフマイスター
フランツ・アントン・ホフマイスター(1854-1812)は非常に多作の作曲家で、ウィーンとライプチヒで楽譜の出版業まで営んでいた人物です。現在のC.F. ペータース出版社の礎を作った人物としても有名です。1802年にJ.S. バッハの作品の楽譜を多数出版した事が、その後のメンデルスゾーンをはじめとする音楽家たちによる、バッハ・リバイバルへ繋がったとも言え、その意味では大変に重要な仕事をした人物と言えるでしょう。(ちなみにシューマンやクララ・シューマンの作品の初版譜を出した、同じライプチヒのホフマイスター社を立ち上げたのは、別の人物、フリードリヒ・ホフマイスターです。)

エーベルル
アントン・エーベルルは1765年にウィーンで生まれ、1807年にウィーンで亡くなった、まさに生粋のウィーンの作曲家でした。モーツァルトの弟子で、モーツァルトの一家とも大変親しく、初期の作品はモーツァルトの名前で(モーツァルトがそれを認めた上で)出版されました。国外では、1796から数年間ロシアのサンクト・ぺテルスブルクで、楽長も務めましたが、その後ウィーンに戻り、1807年帰らぬ人となりました。当時彼の交響曲は、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの作品に匹敵すると言われたそうです。例えば、1806年にベートーヴェンの英雄交響曲が初演されたときに、同時に同じ変ホ長調のエーベルルの交響曲の演奏も行われたようですし、最後の3つのピアノソナタも、非常に高い評価を得ていました。

ディアベッリ
アントン・ディアベッリは1781年ザルツブルグ郊外ザルツカンマーグートのマットゼーに生まれ、1858年にウィーンで亡くなった、ソナチネ・アルバムには欠かせない作曲家です。しかし音楽史的には、出版社オーナーとしての方が名高いと言えます。当時、音楽出版の分野は始まったばかりの時代でしたが、早くから出版社の校正係として働き、その後自分の出版社を立ち上げました。シューベルトの作品の出版で有名で、特に、作品1として出版された「魔王」、作品2の「糸を紡ぐグレートヒェン」は空前のヒット作だったようですし、ベートーヴェンに傑作「ディアベッリ変奏曲」を書かせたのも、11歳のリストの初出版作品を世に出したのも彼でした。

クーラウ
フリードリヒ・クーラウ(1786-1832)は、この作品60の全3曲以外にも、ソナチネを多数書いており、作品20(3曲)、作品55(6曲)、作品59(3曲)、作品88(4曲)等があります。ピアニストにとってはソナチネの作曲家という印象が強いですが、フルートの素晴らしい作品をたくさん書いています。ドイツの作曲家で、ウェーバーと同年の生まれですが、20代から、デンマークのコペンハーゲンに移り、以後ずっとデンマークで大活躍した音楽家でした。とは言え、ウィーンなどへも出かけて行ってベートーヴェンの影響も受けたりしています。当時の例にもれず、オペラ等も含む、多数の作品を書きました。

(Copyright 上野 真 / Makoto Ueno)