Writings
ワルトシュタイン・熱情・幻想曲・・・ベートーヴェンと楽器、そして今回のレコーディングについて
このレコーディングには、大阪府堺市にある、クリストーフォリ・堺・山本コレクションの楽器を使わせていただきました。山本宣夫氏、そして波多野みどり氏に心より感謝申し上げます。
山本コレクションの楽器は皆大変貴重なもので、オリジナルの状態を奇跡的に保っている楽器が多いのですが、山本さんはオーストリア国立ウィーン芸術史博物館の歴史的鍵盤楽器コレクションの修復に携わっておられた方で、ポリシーとして、現在残っているオリジナルの楽器が、後世の人々が見て、弾いて、聴いた時に、元の状態が分からなくなってしまう様な修復は絶対に避ける、と明言しておられます。これらの楽器が100、200年後に残った時に、後世の製作者や職人さんが、数百年前にどの様な楽器が存在したか、どの様な種類のマテリアルを使い、どの様な中味の仕事をしていたかが分かるように、細心の注意を払いオリジナルの状態を保っておられるからです。・・・それは演奏する側からすれば、必ずしも「弾き易い」ことを意味しないのですが・・・その「犠牲」を多少払ってでも、オリジナルの楽器の味わいには捨てがたいものがあります。
今回の録音では、出来るだけ生き生きしたライヴ感が出て来るように、様々なノイズなども含めて、臨場感を大切にしてあります。既にエスタブリッシュされたものとしてのベートーヴェンではなく、丁度E.T.A.ホフマンの小説に出て来る様な19世紀初頭当時の音楽家の雰囲気、ベッティーナ・フォン・アルニムが書いている様な良い意味での熱心なアマチュアリズムを残したMusizieren、ある作品をどう弾くか以上に、作品そのものに注意が払われていた、「既に消えてしまったある時代」を想いつつ、ある意味洗練され過ぎていない音楽づくりを目指したつもりです。
今回の2台の楽器は、一つがウィーンのマテーウス・シュタイン製作(1820年?)と伝えられているもの(とは言え、ネームプレートが紛失してしまった為、断定は出来ません)、もう一台は、イギリスのブロードウッド(1816)を選びました。両方とも1820年前後のもので、1800年代初頭の作曲年とは、少しのずれがありますが、それぞれの楽器の個性と作品の個性のマッチングが良いのではないかと考え、レコーディングに使用しました。
「ワルトシュタイン」と「熱情」は、1803年にベートーヴェンの元に贈られたフランスのエラール製のピアノ(ちなみにこれは後年リストが使ったタイプとは大きく異なるものです)に直接影響を受けて作曲されたものです。これは初期のイギリス式アクションのピアノで、ベートーヴェンが普段弾き慣れているウィーン式のものとは異なっていました。初めベートーヴェンはこの楽器を大変気に入りましたが、その後徐々に不満を持つようになり、ナネッテ・シュトライヒャーとマテーウス・シュタインに様々な改良を依頼します。2人は、ドイツ・アウグスブルグの巨匠、モーツァルトとも交流のあったピアノ製作者ヨハン・アンドレアス・シュタインの子供達です。(父のヨハン・アンドレアス・シュタインは、有名なオルガン製作者ジルバーマンの弟子でもありました。)
マイスターの娘と息子は後年ウィーンに移り、ナネッテは(父親と同じ名前の)ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーと結婚し、シュトライヒャーのブランドでピアノ製作の工房をやりくりし、マテーウスの方も、自分のピアノ工房を持ったとの事です。家族ぐるみで、ベートーヴェンとは親しく付き合いをしていた記録が残っています。
当レコーディングに使用したマテーウス・シュタイン(伝)は4本ペダルを持っており、現代のグランドピアノと同じ原理のダンパーペダルとシフト・ぺダルの他に、モデラート・ぺダルという、当時のウィーンの楽器に頻繁に付けられていた、弦とハンマーの間に布を挟むペダルと、ファゴットペダルという中音域以下の音にびびり音を生じさせるペダルが付いており、特にモデラート・ペダルはベートーヴェンやシューベルトには無くてはならないものの様に思います。「ワルトシュタイン・ソナタ」の大きな、そして極端なダイナミクスの変化はこのペダルがあってこそ生きて来る様です。また「幻想曲」の中の幾つかの場所では、ファゴットペダルも使ってみました。頻繁に使うものではないかもしれませんが、ベートーヴェンのウィットやユーモアを感じさせてくれます。
ブロードウッドは、ウィーン式の楽器の多くとは異なり、ダンパーとシフトの2本しかペダルはありませんが、ダンパーペダルは高い音域と低い音域別々にペダルを使用する事が出来る事、シフトペダルはシフト量が多く、全ての音に3本弦が張られている為、una corda、due cordeとtre cordeを使い分け出来るという特長があります。もう一つの大きな味わいの一つに、ダンパーが弦よりも下側についており、またマテリアルもやや異なり、止音性の点で現代の楽器と異なるため、鍵盤から指を放した後も、特に低音域の音が長く響き続けて残るという事があります。低音が残りやすいという特徴は、多かれ少なかれ20世紀初頭のドビュッシー、ラヴェルなどの時代迄のフランスの楽器にも見られます。今まで弾く事の出来た19世紀前半のイギリスの楽器の幾つかは、音を止めるという発想でなく、音をいつまでも響かせる、という発想になっていて(現代の楽器でも、良い楽器はこの傾向が強い気がします)、中にはダンパーが付いていない楽器さえありました。その辺の特徴が、「熱情ソナタ」にとても合うのではないかと考えた理由です。因みに1818年には、ほぼ同型のピアノがロンドンのブロードウッドからベートーヴェンに贈られ、ベートーヴェンはこれを誇りに思い、生涯所有していました。この有名な楽器は後年リストの手に渡り、リストが亡くなるまでワイマールの家に置かれていました。
これらの楽器は前述のように2台ともオリジナルに限りなく近い状態を保っています。相応の経年変化はあると思いますが、歴史的楽器に付きものの質の低い修理の痕跡なども見当たらず、元の楽器の特徴や個性がかなり強く残っている様に思います。
同時代の楽器とは言え、この2台の個性は大きく違います。鍵盤サイズ(幅、奥行き)と、その深さ、重さの違い、音の減衰の仕方、ペダルとダンパー、ボディー本体の構造自体の違いも少なくありません。またケースの木材の種類、ケースの色、アクションの内部も全て異なります。外観の、ヴィジュアルな印象が、そのまま音色にも表れていて、そのイメージの統一感が見事です。個人の名人、マイスター達が工房を率いて作っていた時代の芸術品、という感じがします。
今回使用したマテーウス・シュタイン(伝)は、明るく軽やかな、それでいて大変表現力に富んだ、洗練された楽器で、アクションのコンディションも上々でした。比較的スムーズで滑らかな、デリケートかつリズミックな音楽づくりが似合います。いかにもウィーン風の楽器です。
ブロードウッドはuna cordaからtre cordeが出来るペダルを備えているとは言え、比較的ダイナミクスの変化が付きにくく、残響が豊かな為、表現に「時間」が必要になります。ある種の重さ、暗さと、陰影の豊富さを持っていて、音域ごとの遠近感がはっきりと出ます。また様々な倍音の混沌とした感じ、和声の混じり方に独特の雰囲気があります。
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19世紀半ば位迄の楽器はどこか華奢ですが、その木製のケース構造自体が共鳴体であり、それ以上でもそれ以下でもなく、大きなホールの音響に合わせようと音をむやみに増幅させたりはしません。そこから生まれて来るタッチ、サウンドの減衰、音域ごとのダイナミクスと音色のパレットのバランス・・それらの中で当時の大作曲家が創作し、演奏していたことは紛れもない事実なのです。
興味深いのは、ほぼ19世紀後半から20世紀初めまで、ベーゼンドルファーやブルートナーなども、ウィーン式のアクションとイギリス式のアクションの楽器を、同時に並行して生産していたことです。手工業的な会社だからこそ出来た事だろうと思いますが、カタログに2種類載っており、ウィーン式の方がわずかに廉価だったらしいのです。実際に弾いてみると、例えば19世紀終わりのウィーン式アクションのベーゼンドルファーは、19世紀中頃のシュトライヒャーにとても近いものがあり、その頃のドイツ・オーストリア圏の人々は、ウィーン式の楽器もやはり必要と考えていた事が伺えるのです。当然のことながら、ウィーンのレシェティツキーの弟子たちは、皆ウィーン式の楽器にも親しんでいたに違いありません。アウグスブルグのシュタインから続く「ドイツ・ウィーン式のアクション」製造の伝統が無くなってしまったというのは、今から振り返ると、とても残念な事です。
ベートーヴェンは若い頃、特に1810年以前、当時の華奢な楽器を、余りに情熱的に演奏した為に、ついに壊してしまったという逸話も残っていますが、実際に強い感情・情感を持って19世紀初頭までの楽器の鍵盤アクションに触れると、又ペダルを操作すると、様々なノイズが発生しますし、特にベース音域をフォルテで弾くと、弦の振動がガラガラと音を立てさえします。しかし慣れて来ると、その賑やかなノイズも含めた楽器の鼓動の様なもの、それさえもが、当時音楽をすることの一部分だったようにも思えてくるのです。
それにこの当時のフォルテピアノはヴァイオリン、チェロ等の弦楽器との相性も良く、アンサンブルの時にそれらを音量的にカバーしてしまうこともありません。現代の鍵盤楽器で、他の楽器と室内楽を演奏することの問題点は、特に弦楽器、木管楽器と合わせた場合に如実に表れます。勿論それらの楽器も19世紀の楽器と同じではありませんが、それでも弦楽器、木管楽器奏者がよほど強力な音の持ち主でない限り、ピアノ側が音量を弱めに調節しなくてはならないのです。現代のピアノが出せる自然なフォルテがあるのに(本当は出せるのに)、それを「抑制」しなくてはならないとすれば、雄大さ、崇高さなどの感情の起伏、そしてその表現の大きさ、という観点からすると、それは本末転倒になってしまうと言わざるを得ません。
ソロの作品であっても、昔の楽器の為に書かれた作品を現代のピアノで演奏する事の欠点の一つは、「音量をコントロールし過ぎると、本来作品が求めている、力感・情感があふれるような雰囲気が出ない場合がある」事です。昔の楽器なら思い切り弾く事が出来るパッセージが、「その様に弾けない事による物足りなさ」、という事があり得るのです。逆に、現代のピアノの限界までダイナミズム、音量を駆使して演奏すると、殊にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトやブラームスなどの音楽では、「彼らの思い描いていたであろう音楽」とはかけ離れてしまう矛盾が生じる事もあります。
当然ながら19世紀の楽器には間違えようの無い、19世紀の音があります。更に、国によって、いやメーカー別の大きな違いがあります。1台ごとの個体差も大きなものです。昔の楽器は少し気まぐれな所があり、毎回どこか違った顔を見せてくれる気がします。過去の楽器は楽器の機構自体に「完璧過ぎない」部分があるため、そこに何か「人間的な含み」や「味わい」が入る余地があります。その点、現代の楽器は、比較的均一で、機能的で、信頼感と音量はありますが、製造する場所特有の、その土地の木材やフェルトや皮を使っていたという、「地域色」などは皆無に等しくなりました。また過去の楽器を数多く弾いた経験からすると、現代の楽器の多くにおいては、「一つ一つの楽器が求める弾き方」、「解釈の余地」が、かなり狭くなったような気がします。
ベートーヴェンの音楽は非常に大きな力を持っており、そのアポロ的な構造的面や、ディオニソス的な激しいテンペラメントなどは、楽器の特性のみに立脚するものではない事は言うまでもありません。しかし往時の楽器で演奏していると、ベートーヴェンが直接語りかけて来る様な気分が味わえます。自然や神への畏怖のような感情や、両極を行き来する独特のテンペラメント、多様な性格や高貴な気品、というようなものが、よりダイレクトな表情で表れるのは、恐らく当時の楽器です。
21世紀に入り、様々なジャンルの多くの音楽が「既存の音楽」となり、「BGM化」してしまった時代、何度も繰り返し聴かれる古典的な音楽について、「新作を生まれて初めて聴くような新鮮さ」を聴く者に喚起するのはもはや難しいのは確かです。またモダンで非常に扱いやすく、何でも出来る楽器が、ますます「鮮明さ重視の音楽」づくりの方向、非常に「デジタル的な」音楽を追い求める方向に進む事を助けています。現代の色々な分野の「進展」は、多くの場合、速く、便利に、均等に、均一に、正確に、明確さと解像度とコントラストを上げて、というものですが、ピアノはその性質上、クラシックの楽器の中でも、際立ってその影響を受けているように思えます。全てがそうであると断定するつもりはありませんが、それはベートーヴェンの音楽が(許容はするものの、本来)求めると思われる方向と反対のベクトルを向いている部分がある様に思います。現代の楽器を使いますと、どうしても「精度を高めた演奏」、そして「完全に出来上がった、パッケージされたプロダクト」といった方向になりやすいのです。
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色々書き連ねましたが、このレコーディングは、現代のピアノを否定するとか、オリジナル楽器でなくてはいけないとか、そのようなドグマティックな考えで行った訳ではありません。何よりも山本さんと、そして楽器との出会いがあった事、そして純粋にそれらを「弾くこと」が愉しく、また示唆に富んでいると感じたからでした。
現代のピアノで、現代の大ホールで弾くベートーヴェンも存在意義があります。現代の最高の楽器も、やはり素晴らしいものです。時代は変わり、環境が変わり、人々の生活習慣も変わります。しかし作品の懐の深さゆえ、多様な弾き方、解釈が可能・・・だからこそ、古典作品は偉大とも言えるのでしょう。
おそらくこのCDを聴かれる何割かの方々は、やはり現代のピアノの方が良い、或いは、1870年前後にピアノ製造の革命を起こしたスタインウェイの凄さが良く分かった、という気持ちを持たれるかもしれません。それもまた一興・・・・
2011. 1月記
上野 真