Writings


過去、現在、未来
ベートーヴェンのソナタ・幻想曲の世界と、ハンマーフリューゲルの魅惑

Peter Cossé
ペーター・コッセ


この数十年間、ベートーヴェンのピアノ演奏と関わりを持ちつづけてきた人ならば、才能あるピアニストがベートーヴェンのソナタやピアノ曲を、「昔の」楽器で演奏していることに、驚きを禁じ得ないだろう。「昔の」楽器、というのはこの場合ベートーヴェンの時代に作られたそれを意味する。このピアノを演奏する際に重要となるのは、作曲当時の表現の可能性にふさわしい演奏の基礎を定めることであるが、それだけでは終わらない。当時の作曲家は、楽器が規定する演奏の限界を考慮に入れて曲をイメージせねばならなかった。かくして、作品と楽器製造の歴史は、芸術上の創意、すなわち偉大な巨匠の夢が、彼らが望み要求してきたような楽器が完全なものへと進化する発展の過程において、作品と楽器がいわば互いに豊かな実りを迎えた歴史でもあるのだ。

上野真、深い思考を持ちながらも、革新的な形式を志向する、ベートーヴェンの弁護人のような存在でもある上野は、ほとんど通俗的な部類にすら属するソナタ二曲(作品53・57)と、まさに「幻想的な」即興曲の習作である作品77を、当時の設計図によって作られた2台のハンマーフリューゲルで演奏するという決断を下した。これは、音楽の劇的な変革の時代を、実際の音で振り返ろうというものである。ベートーヴェンのいわゆる《ヴァルトシュタイン》ソナタ、そしてさらに激しい《熱情》ソナタは、当時の聴衆(当然選り抜きの聴衆ではあったが)にとって、心を揺さぶるような経験であったに違いない。これらの曲は、当時の二流・三流の作曲家による作品、すなわち性格的小品、ソナチネ、レッスン用の練習曲、要するに家庭的な、良い意味での「アマチュア的」音楽生活のなかで必要とされるような作品、出版業者と組むことによってある程度の確実な収入が期待できる類の作品とは、全く異なるものであった。

今日残る楽器は大抵の場合模造された(後から作られた)ものだが、いまだ演奏可能な昔の楽器の個性は、現在もっぱら用いられている「モダン楽器」とは異なり、音色の豊かさにこそある。確かに、音量の点ではスタインウェイやベーゼンドルファーのそれには劣るが、その内面的な響き、弱音や中くらいの音量によるアクセントの柔軟性、あたかも間接照明の空間に見られるような光と影を思わせる音色は、注意深い聴き手に、演奏されるそれぞれの作品に備わった重要な特色を伝えてくれる。それ故に、この「昔の」楽器で演奏するという責任ある課題に際しては、ピアニスティックなノスタルジアの保守的な変形を披露するだけでなく、古いものと新しいものを統合してより高めるような演奏手法を徹底的に究め、音楽の本質を活き活きと現実的に体験できるよう演奏するという「勇気ある行動」が求められる。

《ヴァルトシュタイン・ソナタ》ハ長調作品53は、1803~04年に作曲された。フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵は、豊かな知識を持ち合わせた音楽ファンであるのみならず、貴族社会では作曲家として名を知られた存在でもあった。音楽学者たちは、ベートーヴェンの《騎士のバレエ》(1790/91)の一部の音楽はこの伯爵の着想に由来するものとしている。この曲からは、ハンガリー貴族が抱く作曲上の野心が垣間見え、その旋律の着想(ジプシー楽団によって即興演奏された)は、リストやブラームスの作品へと直結している。ヴァルトシュタインはベートーヴェンの生涯において、パトロンとして重要な役割を果たした。ベートーヴェンがウィーンに居を定めることができたのは、おそらく彼のお蔭であろう。

このソナタ作品53で支配的なのは、ヴィルトゥオーゾ原理、とでも言うべきもの、もちろん前代未聞のピアニスティックな輝きと結びつけられたものである。後年のソナタに見られるポリフォニーへの志向は、この曲ではまだほのめかされている程度に過ぎない。両端楽章を支配するのは、活発な、性急とさえ言うべき、ピアニストを挑発するホモフォニーである。この奏法による挑発は、スカルラッティ、バッハ、ハイドン、あるいはモーツァルト作品における、超絶技巧を必要とする有名な問題箇所を受け継ぐものでもある。すなわち、和音の連打、極端な音域を探索する事、両手によるトレモロと手の交差、向こう見ずなオクターヴのパッセージ、そしていわば絵画的響きを生み出す付属機器であるペダルの使用である。このソナタの新手法を、ベートーヴェンの専門家ユルゲン・ウーデは「新種の、響きの科学的有機的な結びつきの瞬間、時間を統合させたもの」と考えた。又続けて「いくつかの箇所、低声域に配された左手の重音、とりわけ展開部最初に登場するそれや、より音の多い左手の重音(62小節目以降や、249小節目以降など)など、ピアノの響きはこれまで以上に《喧騒的なもの》へと近づいている。」と書いている。この《喧騒的なもの》は展開部の最後でも、左手が雷鳴のように、ちょうどティンパニのロールのような陰鬱な連打を演奏する場面で発生する。

フランスにおいて、このハ長調ソナタ作品53は、当時の出版業者によって「曙光(L’aurore)」という表題を付されて宣伝された。少なからぬベートーヴェンのソナタにはこのような表題がつけられ、聴衆に愛されてきた。批評家レルシュタープによって《月光ソナタ》という忘れがたい名前が与えられ、その後も出版業者やコンサート・マネージメント業者が、今日に至るまでこの表題を好んで用いていることを考えれば充分だろう。また「曙光」という名前から、ハイドンの《四季》を思い浮かべる向きもあろう。ベートーヴェンの場合に重要となるのは(あえて挑発的に言葉で意味づけする事をお許しいただけるのであれば)、旋律や音型の中で起こる、何の暗示もなしに切迫させたり煽ったりするような、「知られざるものへの覚醒」と呼ぶべきものである。この不安感、第1楽章における創造的な冒険の歓びは、第2楽章の「Introduzione(導入)、Molto Adagio」において、急ブレーキがかかる。あたかもベートーヴェンが世俗的・熱狂的な鍵盤上の演奏に、瞑想的な音楽を対置しようとしたかのようである。もともとベートーヴェンは、第2楽章に、今日も有名で好んで演奏される《Andante Favori (お気に入りのアンダンテ) 》を置こうとしていたが、あまりに込み入ったものであったために、ドラマトゥルギー的観点からこの楽章には適さないと判断され、外された。そのためらいがちな、思い煩うような、むしろ遠慮がちですらある旋律、いやもっと正確に言えばそのレチタティーヴォのような形式による「Vorspiel(序奏)」は、シューベルトの変ロ長調ソナタ(D960)の緩徐楽章を思わせる。優しげに、幸福と苦悩の中で揺れ動く序奏に続くのは、最高の輝きをみせる最終楽章、これは主題と超絶技巧を擁する変奏曲である。風のように荒れ狂うこの楽章を聴いて、出版業者は「曙光」という名でこの曲全体を形容しようと思い立ったのだろうか。実際、ベートーヴェンの作品全体の中でも、彼がこれ程までに疑いなく、ピアノ的な生の明るさの側面を強調した曲は少ないのである。

ベートーヴェンが作曲した全32曲のピアノ・ソナタを分析すれば否応なしに、ヘ短調ソナタ作品2-1と、《熱情ソナタ》作品57に見られる、ある種の関連に気づくだろう。この初期作品と「中期の傑作」のひとつに数えられる作品に共通する、切迫した運動性と活気に溢れた主題、すなわち沈み込むような、時によっては極端なまでに突進するような動きによる主題が特徴的である。作品57のソナタによって、我々はピアノに委ねられた「悲劇」に苦しめられるのだ。第1楽章の終結部は、混乱と、そして絶望のうちに終わり、第2楽章では主題の変容を通じ、平和への、より良い平和な世界への憧れが描かれるが、これとは対照的な最終楽章の冒頭に登場する粗暴な和音の連打で、容赦のない、敵対的な、冷酷な世界へと引き戻される。ガラガラと音を立てているような十六分音符の運動性には、ある種の「くいこむようなしつこさ」がある。この「突き刺すような強引さ」は、上流社会の中でその制度に批判・反抗しつづけたベートーヴェンのありようを、音楽でも執拗に示したものであるように思われる。この作品は和音の繰り返しによる没我の境地の中、最後には三和音が下降し、解体し、渦の中に巻き込まれるように終わってしまう。美しい世の中を願うあらゆる信仰からはほど遠く、むしろ全ての壊れゆくものへの讃歌のようですらある。

ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンは、同時代人の証言によれば、天分に恵まれた即興奏者であったという。その《幻想曲ロ長調》作品77(だがその始まりはト短調!)は、間髪を入れずに発揮される即興の才が、紙の上に記録された例である。この作品はさまざまな感情を走り抜け、冒頭で駆け下りた音階から大胆な転調によって遠くへと離れ、愛らしい善なるものへと形を変える。次の瞬間に、身の毛がよだつような曲想を鮮明に描き出すためである。喩えるならば、演奏者と聴き手が共に体験する、遊園地の化け物めぐりコースターのよう。ベートーヴェンはこの作品を1810年、ブライトコップフ&ヘルテル社に、次のような惹句を書き添えて提供した。「ここに新たな作品。ピアノのための幻想曲」。ただ新しい作品というだけでなく、新しいジャンルによる作品であり、数え切れないほどの大胆な表現、先行作品への言及、そして《ソナタハ短調》作品111にまで至る道程、という預言的な意味合いをも含んでいる。いわば、ピアノのための「サイエンス・フィクション」であり、音楽による過去への旅行、そして同時にベートーヴェンの時代から未来への時間旅行でもあるのだ。

(訳:広瀬 大介)