Writings
ショパン、プレイエル、そしてエラール
ショパンとプレイエル、ショパンとエラールの関係については、これまでも様々な事が語られてきた。ショパンが残した言葉は示唆に富んではいるが、一面しか表していない様にも思える。やはり楽器については、書物を沢山読んでも実態は掴めず、実際にそれらの楽器に触れ、何度も演奏をする事で、見えて来るものもあるのではないかと考えている。
数年前のベートーヴェンのCDに引き続き、大阪・堺市のフォルテピアノ ヤマモトコレクションの山本宣夫氏の多大なるご好意で、このショパンのプロジェクトが実現した。1台1台の原型を保つ事、その特徴を後世に伝える事を大切にしておられる山本氏、そしてスペース クリストーフォリ 堺(大阪)の波多野みどり氏に敬意を表し、また心より感謝を申し上げたいと思う。
21世紀に入り、環境問題によるピアノ製造に適したマテリアルの世界的な減少、そして我々の意識の変化等も背景にあり、今後ピアノのサウンドは、益々現代のニーズやテイストに合ったものに変わっていく(進化とはあえて言わない)と考えられるが、それだけに現在の私の中には、我々ピアニストの中核を成すロマン派のレパートリーを、当時の、それも出来るだけオリジナルに近い状態の楽器で、サウンドを残しておきたい、という気持ちが強くある。演奏可能な状態にある19世紀の楽器の数が極端に少ない上、仮に演奏が可能であっても、今度はオーバーホールされ過ぎていて、殆ど「現代に製作されたレプリカ」と変わらない印象を与えられる事が少なくないので、オリジナルに限りなく近い楽器が現存する内に、この様な録音の機会を今後も作りたいと願っている。
言うまでもなく、現代のピアノはダイナミクスの幅が広くppppからffffまで問題なく出す事が出来、調律は安定しているし、温度や湿度変化に対する許容度など、機能的な部分は疑いなく素晴らしい。ある程度は演奏を計画し、想像出来る。恐らく170年前では考えられなかった様な精度を駆使した「技」、例えば声部の極端な音量差による弾き分けやシェーディングの付け方、そして極端な短い音なども使える事は確かである(しかしそれらが本当にショパンの求めていたものなのかどうか・・・これは誰にもわからない)。また世界中のホールで、 (微妙な違いは多々あるにしても・・・)弾き心地がそれほど変わらない、水準以上の楽器に出会う事も出来る。反面、「予想外のサウンド」が出てくる事が余りにも少なくなってしまった、とも言えるかもしれない。加えて現代の楽器が、「どの様な様式、文化を背景に持った音であるのか」、或いは「何に根ざした音なのか」、という点で、はっきりしない事も結構多い様な気がする。ピアノ作品の黄金期は遠く過ぎ去り、全く異なる観点からの音楽が多数生まれている現代であるから当然と言えば当然である。
このエラールとプレイエルは、鍵盤楽器製造の長い伝統に根差した上での、19世紀半ばの一つの到達点、そしてロマン派の美学への解答だったのであろうと思う。アクションは繊細ではあるが、究極の所は、どことなくアバウトだし、音によってムラがあり(古典派時代を越えても「イネガリテ」がまだ残っている)、極端なダイナミクスが使える訳ではなく、特にプレイエルの調整は調律師泣かせだと聞く。しかしその代りに得られる、音域毎の味わいの深さと奥行きの感覚、和音の独特の重なり方、ペダルの混ざり方の素晴らしさ、音自体のある種のオーセンティックさは(・・・経年変化があるとは言っても、ほぼこのサウンドをショパンは聴き、この鍵盤と同一のアクションに触れて創作していたのだから・・・)とても貴重なものと言えよう。ロマン派の音楽、特にショパンの音楽の多くの作品において、「郷愁=ノスタルジア」は、欠かせない1つの重要な要素だと考えるが、これらの楽器は、音そのものにも過去の歴史の積み重ねがあり、何かへの憧憬のようなものが感じられる。
世界中を探してみても、良好なオリジナルの状態で残っているロマン派時代の楽器は少ないのが実情である。近年ワルシャワのポーランド国立ショパン協会でも、1840年代製のエラールやプレイエルを使った録音が進行しており、名手による素晴らしい演奏を堪能出来るが、それらのプレイエルやエラールとは(ほぼ同時代ながら)また異なるサウンドや雰囲気を味わって頂けたら幸いである。私は、昔の楽器がただ繊細なだけではなく、実は非常に濃密で力強い表現を可能にするものだと信じている。
ピアノは矛盾に満ちた楽器である。固有の音色を持った弦楽器、管楽器、打楽器、或いは人間の声とは異なり、鳴った瞬間から減衰していく一つの音それ自体では、何か表現力のある魅力的なものを作ることは殆ど出来ない。和声、旋律、リズム等、関連性のあるものの、時間軸を基にした、「連続的な連なり」と「何かを連想させるサウンドの集合体」、があって初めて、「総合的な美しさ」を表現できる。しかしその半面、音域は広く、ソプラノからバスまで全ての人間の声域は勿論の事、殆ど全ての楽器のイミテーションが出来る。
弦楽器とは違い、機械・可動部分が多くあるため、産業革命後、鉄をはじめとする様々な金属を大量生産出来る様になって、ピアノも量産され初め、「発展」する事が出来た。しかしそれでも、名器の工房では・・・一般的に言って20世紀の初め頃までは特に・・・良質の銘木、最高品質の羊毛、長時間のなめしを行った、今では使う事の出来ないヨーロッパアルプス産の野生の鹿皮、等を使った、非常に質の高い手作業が、行われていた。ストラディヴァリ、グァルネリ・デル・ジェス等の弦楽器の名器でもはっきりしている通り、やはり楽器には、造り手の魂の様なものが宿るのである。これらの2台の楽器にはどちらもオリジナル・ハンマーが付けられている。ベース弦もほぼ当時のものを使っているとの事である。
今回のレコーディングに際し、当初は1837-39年作曲、1840年出版のソナタ第2番を、1846年製プレイエル(マヨルカのヴァルデモッサ僧院とプレイエルというイメージからも)、1844年作曲、1845年出版、晩年の作風のソナタ第3番を、1851年製エラールで録音しようと考えていたが、リハーサルを続けた結果、その逆にソナタ第2番をエラール、ソナタ第3番をプレイエルで録音することにした。エラールのレぺティション機構の方が、和音連打が多いダイナミックな第2番に合うし、陰影に富み、ニュアンスに満ちたプレイエルは第3番に、よりマッチする様に考えた。
ショパンについては、以前にも増して、近年様々な研究がなされ、その成果は、新しい楽譜にも、その他の出版物にも反映されている。今回はPWMのエキエル2011年版を基に、ショパン協会が出した手稿譜ファクシミリ(ワルシャワの国立図書館にあるMus.232 Cimによるもの)も参考にした。例えばソナタ第3番の第1楽章第2主題の左手伴奏部と右手符点後の音の合わせ方の不規則性、また第3楽章の中間部のリズムなどは出版譜のグラフィックスと解説を読むだけでは理解できない部分ではないかと思われる。
ショパンの難しさは、非常に楽譜に表しにくいニュアンスを多く含んだものであると同時に、ポーランドにも、フランスにも、そしてリストが発端となり、スラヴ諸国を中心に発展した、いわゆる19世紀のロマンティック・ヴィルトゥオーゾ・スタイルの流れにも、それぞれ強固な伝統が脈々と受け継がれている、という事である。しかし、当然ながら伝統の名のもとに、実は大きな誤解や逸脱、ショパンの精神からの乖離が生じる事も有りうる。それらの、時に相反する事柄をバランスさせ、それぞれのやり方でショパンの心に近づく事、これが我々演奏家に与えられた課題であると思うこの頃である。
2013年10月 京都にて記す
上野 真
使用楽譜
PWM 9731 (Printing 2011)
The Fryderyk Chopin Institute Facsimile Edition
A IX/58 (Manuscript held in The National Library in Warsaw, Mus. 232 Cim)