Writings


びわ湖ホール 曲目解説


 ベートーヴェンの音楽がどのように「成長」を遂げていったのか・・
 修行時代に、バッハ、ヘンデル、C.P.Eバッハ、ハイドン、クレメンティ、モーツァルトなどの先達のスコアや理論を徹底的に勉強した事、またオルガンやクラヴィコードなどの 鍵盤楽器だけではなく、弦楽器やホルン等も演奏していた事が大きいと考えられます。
 習作は色々あり、様々な試みをしていた様ですが、出版した作品は、室内楽曲、ピアノソロ作品、弦楽四重奏曲、歌曲などから完成度を高め、協奏曲、交響曲へと歩みを進め、フィデリオや合唱幻想曲を書き、それらの融合へと進み、ミサ・ソレムニスや合唱交響曲へと昇華され、最後に弦楽四重奏曲へと帰って行くのです。
 そして音楽だけではない、文学、哲学、政治や宗教にも大きな興味、関心を抱いていたようです。カフェで新聞を読むベートーヴェンの姿を想像すると何か微笑ましいものがあります。スパイだらけだったと言われるウィーンで、検閲に怯える事もなく自分の政治的意見なども堂々と述べていた様です。
 プラトン、シェークスピア、カント、ゲーテを好み、時には余りにも芸術最優先の考え方から、特に中年から晩年にかけては自分が重要視する作品だけを書こうとして、生活のために稼ぎになる作品を、(当時の作曲家の多くに比べると)ほんの僅かしか書かなかった事が、ベートーヴェンの生活を困窮に追い込んだ理由の一つでした。特に晩年は、国際的にも当時の多くの音楽家、専門家から、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトに匹敵するヨーロッパ随一の巨匠と認められていたので、「売れる曲」を出版社に言われる様にさえ書けば、経済的にもそれほど困らなかったのにも関わらず・・・。
 大きなプライドとともに、自分に残されているわずかな時間を大切にしたい、と余計な仕事を可能な限り避けていたのです。その辺りもベートーヴェンの創作への集中、芸術作品を残すということに関して妥協することへの嫌悪を感じる事が出来ます。恐らく近くにいる人間の為、周りの人々に認めてもらうという様な現世的な考えよりも、絶対的な神の為に仕える、或いはミューズ神が認めてくれれば良いという考えが彼を支配していたのだと思われます。
 シューマン等ロマン派の作曲家がこの様な考え方の影響を受けて、他にも沢山の才能ある芸術家がその様な人生観の元に、創作活動をしていた訳ですが、ベートーヴェンの様な、後々にも残る作品を生み出せるのは数少ない超天才のみ、という事は明白な、そして残酷な事実です。ヘンデル、ハイドン、クレメンティ、ロッシーニ、リスト、ヴェルディなどは超天才でしたが、そのような意味では現実主義者で、生活力も卓越していました。ベートーヴェンの方が遥かにロマン派的な生き方をした、と言えるかもしれません。
 シントラーなどの同時代人によってかなり歪められた、かつての「神聖なるベートーヴェン像」とは異なる、もっと人間的なベートーヴェン像が、現代のベートーヴェン研究によって明らかにされてきており、それによって彼の人生の断片をかなりの精度で垣間見る事が出来る様になりました。もともと非常に社交的で、男友達も女友達も多く、協力してくれる貴族の友達も沢山いたのですが、例えば1813年4月に誕生したベートーヴェンとヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(ダイム)の娘と考えられているMinonaの存在は、彼にとって社会、階級、宗教などを改めて考える契機となったに違いありません。楽譜の出版、貴族からの年金など、それなりの収入もあったのに、なぜ大きな借金があったのか等、その辺の事情があったと思われます。しかし様々な事を総合してみると、彼がどれほど誠実に様々な事柄に対応したかという事に心を動かされます。

 これらの4曲のソナタが書かれた1790年前後から1820年迄の、ベートーヴェンの青年期から晩年にかけては、ヨーロッパ社会と芸術が大きな変動を経験した時期でもあり、彼もまた激動の人生を送りました。それを踏まえて彼の作品も、古典様式の最高の完成とでも言えるような、完璧な構造の作品から、ロマン派、更には20世紀の音楽に繋がる、非常に細かなディテールを含む、複雑な構造の作品までを網羅する、という結果に繋がって行きます。まさに芸術界の巨匠中の巨匠の人生を俯瞰する想いがします。

 第7番のソナタは、1796年から98年にかけて作られ、アンナ・マルグレーテ・フォン・ブロウネ伯爵夫人へ献呈されました。作品10の3曲のソナタの中で唯一の4楽章形式のソナタで、初期の作品の中で、最も内面的な悲痛さを持つ第2楽章のLargo e mestoが中心楽章であり、それをバランスさせる活発でリズミックな2拍子のPrestoの第1楽章と、非常に優美なMenuettoと持続するリズムを持つTrioを持つ第3楽章、喜怒哀楽の変化が急激で喜劇的な側面を持つロンドの第4楽章と、それぞれがとても強い性格を持っています。第1楽章も第2楽章もソナタ形式を採用しているのが特徴と言えるでしょう。
 この作品も次の「月光」も実はモーツァルト時代と同じ、5オクターブのコンパクトなフォルテピアノの為に書かれた作品ですが、このニ長調ソナタの第2楽章や「月光」は、既にSturm und Drangを経験した世代の、いわゆる古典派の境界線を越えて、ロマン派の領域に踏み込んだとも言える作品です(一般的には、ベートーヴェンの晩年の作品でロマン派の様式になると考えられていますが)。

 第14番の通称「月光ソナタ」は、1801年に作曲され、ジュリエッタ・グイッチャルディ伯爵夫人に献呈。ソナタ形式を採用するのは第1楽章と第3楽章ですが、第1楽章では、主題の音構成が4音-6音程度しかないこと、第2主題は微妙に隠されている上、その性格が殆ど第1主題と変わらない様に(音型は明らかに異り、クロマティックを重視したものですが)聴こえる事や、展開部がサブドミナントで始まる事など、通常の枠内でのソナタ形式と言えない所もあります。瞑想的或いは夢想的とも言え、左手のオクターブのベースライン上で、右手は最初から最後まで3連音符が1度も途切れることなくメロディーと内声を紡ぐ非常に特殊な書法です。第2楽章は異名同音のDes-Durによる簡潔なAllegretto–Trio-Da Capo。第3楽章こそは、30歳のベートーヴェンの才能、テンペラメントが最高度に発揮された作品と言えるでしょう。最小限のマテリアルを使い、最高度の効果を上げている点、単純でありながら、様々な想像を喚起する力を持った完成度の高いソナタ形式の楽章です。とは言え、第1楽章と第2楽章の性格、そして第3楽章とのバランスなど、恐らく1801年時点ではかなり未来的な作風から、「幻想的なソナタ」と名付ける必要性があったのではないでしょうか。

 第27番は1814年に作曲され、モーリッツ・フォン・リヒノフスキー伯爵に捧げられています。第1楽章はソナタ形式、第2楽章はロンド形式ですが、広い意味でのソナタ形式と把握することも可能で、ロンド=ソナタ形式とする考え方もあります。しかしどちらの場合でも言葉の説明上では矛盾が生じます。しかし楽譜を読めば、この楽章の形式は明確です。
 この第2楽章を初めて聴く方は、ルフラン(第1主題)が8回現れる、或いは最初の主題部分が3回現れ、4回目最後に出現する時だけ左手で主題を弾く、その間に様々なエピソードが聴こえてくる、サンドイッチ構造になっている様に感じるのではないかと思います。この様な場合、リスト版の様に、様々なエピソードの入りを明らかにしてくれれば、形式は自ずとはっきりするように思います。
 第1楽章は「対比」、第2楽章は「対話」とでも言える様な世界観で作られています。第1楽章の場合、コントラスト、対比がより大きく、凝縮したコンパクトな構造を持ちます。第2楽章では、対比の幅が小さくインティメートになる代わりに、構造的には広がりを持つロンドでもあり、ソナタでもあり、まるで、円を描く様な循環的な感覚を備えています。そしてそれまでの作品で、この様な終わり方をする曲はあったでしょうか・・ベートーヴェンとしては珍しい、儚さを感じる終わり方です。

 第28番は1816年に作曲され、ドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人に献呈。1815年から1816年というのはベートーヴェンにとって危機の年でもあったようです。ルドルフ大公以外のパトロン達は亡くなったり、経済状況悪化のため、約束していた年金をベートーヴェンに支払わず、借金もあり、経済状態も健康状態も損なわれていた様です。
 エルトマン伯爵夫人は大変優秀なピアニストで、チェルニーを含む多くの同時代人がベートーヴェンの最高の解釈者と太鼓判を押している人物です。ベートーヴェンがこの作品101を献呈したという事実は、ベートーヴェン自身も彼女の音楽性を高く評価していたという事でしょう。そして彼女の末の子供が病気で亡くなった際に、ベートーヴェンは夫人を招き、長時間ピアノを聴かせて慰めた、というメンデルスゾーンが語ったエピソードを読んだことがあります。
 蛇足ですが、ベートーヴェンの存命中からエルトマンをはじめ、優れた女流ピアニストがベートーヴェンを得意にしてきました。クララ・シューマンは言うに及ばず、19世紀後半からは、テレサ・カレーニョ、20世紀に入ると、ブランシュ・セルヴァ、マイラ・ヘス、エリー・ナイ、マリア・ユーディナ、マリア・グリンベルグなど、錚々たるピアニスト達がベートーヴェンの解釈者として名を馳せてきました。

 個人的に考えるこの作品のテーマは、死者への弔い、救済への願い、そして復活、人生の肯定、苦悩から救いへ、という様なものではないかと考えています。但し言葉では一言で言えませんが、その深層でのコンセプトと同時に、茶目っ気を感じさせる音型やリズムの工夫も共存していて、単純にシリアスな深遠な曲、とも言えない所が多くあります。
 暖かで真剣な、人懐っこい所と、唐突に独自のやり方で動き、他人が言う事を振り切ってしまう頑固さとナイーヴさ、類い稀な知性と教養とを持ち、野性味と情熱、同時に夢見る気持ちを兼ね備えた人物(まさにベートーヴェンはその様な人物です)の様な、ややこしい性格の曲です。シューマンがこの曲を愛好していたというのも頷けます。
 この作品の楽章をどのように分けるかということも、多くの議論を呼ぶ事ですが、恐らく3楽章として捉えるのが、一つの合理的な方法かと思われます。
 第1楽章はイ長調のソナタ形式(ドミナントによって始まり、なかなかイ長調に定着しませんが)。
 第2楽章はヘ長調の行進曲的なvivaceと、そのサブドミナント(4度上)の変ロ長調によるカノンによって書かれた4つの楽節を含むトリオを真ん中に挿入した、Da Capoに戻る3部形式。
 第3楽章はイ短調によるAdagioと短いカデンツ部分、そして第1楽章の第1主題Allegrettoの冒頭部分を、追憶のモティーフとして挟んだイントロダクション(導入部)を持つ、巨大なAllegroのソナタ形式。特長としては、展開部全体が「フーガ的な書法」(本当の意味での厳格なフーガではなく、小節数の区切りは定型通りなものの、音の選び方は、わざとフーガの厳密さから外れて、少し冗談の様な所が多々あり)になっていて、再現部の後のコーダにも対位法的な書法が回顧、追想の要素として短く取り入れられています。