Writings


びわ湖ホール インタビュー


ベートーヴェンに対する想い

 音楽家にとって、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの多くの作品は、一度は演奏しなくてはならない大事なものであると思います。
 約25年ほど前、没後200年をきっかけに、モーツァルトの作品がよく取り上げられた時期がありました。時代は日本ではバブルの末期、世界的にもベルリンの壁が崩壊し、世紀末目前でありながらも、非常に希望に満ちた時代でもあり、あくまでも個人的な感覚ですが、ある意味で、ベートーヴェンが今ほどには必要とされていなかった時期でもあった気がします。
 しかし21世紀に入り2001年9月11日のいわゆる同時多発テロ事件や、2011年3月11日の東日本大震災を体験した後の私達にとって、今こそベートーヴェンの音楽は必要とされているのではないでしょうか。
 彼の作品にはポジティブな力があります。「絶望の中でも人生を最後まで諦めずに生き続けて欲しい」というメッセージが大きく働いており、どの音楽を聴いてもその様なエネルギーが込められているように感じます。
 また本当の意味でのモラリストでもあったベートーヴェンの音楽はただ美しく情熱的なだけでなく、作曲法の技術的側面、ピアニズムの側面、音楽の構成論理や形式、作品が持つ哲学的思想など、様々な角度から検討し、味わい、解釈することの出来る深さを持っています。
 絶対的な美というものを追い求めていた人なのだけれども、一方では、複雑な人間の情念や情感といった、形にならないもの、矛盾を、内面に巨大に抱えていた人だったのではないのでしょうか。それらを持ちつつも、古典的なもの、或いは普遍的なものを目指そうとしたところから彼はスタートして、あらゆることを経験し、その葛藤の中で自分自身の芸術をさらに磨きあげていった。最初に申し上げた「人生を生き、そして困難と戦っていこう」というような感覚があります。
 しかしそれは世界とただ対峙、対決するだけではなく、最終的には平和、或いは希望、時には歓喜に解決するのです。ですから、聴き終わった後に人生を肯定する様な力を与えてくれるのです。短調で始まり長調で終わる、(今回は演奏しませんが)第32番のソナタ、また交響曲第5番や第9番などはそれを分かりやすい形で見せてくれますね。


ベーゼンドルファーモデル290インペリアルで演奏するにあたり

 これまで使う楽器をひとつに絞らないで来ました。出来るだけ「そこにあるもの」を使い、ありとあらゆる楽器を試してみたいと考えています。少なくとも50歳までは・・。
 “ピアノが好き”ということだけでなく、元々“鍵盤楽器”というものに愛着がありました。小学生の頃、北海道で教会のオルガニストだった父が深く関与していたドイツ製パイプオルガンの製作と組み立て行程に立ち会った事を、今でも鮮明に記憶しているほどです。のちに海外、特にヨーロッパに行ってからは様々な楽器屋さんを巡り歩き、特に19世紀から20世紀初頭に作られたピアノを中心に見てまわりました。そこで、かつての楽器はどうだったのかということを自分なりに捉えたつもりです。
 当然ベートーヴェンはピアノの種類やメーカーを限定している作曲家ではありません。高い品質を持ち細かく整備された楽器であれば、どんな楽器を使っても、ある程度容認出来るレベルになりますが、本来ベートーヴェンの演奏は、低音域、中音域、高音域のバランスや和音の響きの質感、ダイナミクスの変化などが鍵になるため、最高度に優れた楽器でなければ成り立たない事も事実です。
 今回の演奏会が、僕にとってびわ湖ホールでの初めての出演になるのですが、びわ湖ホールにはピアニスト仲間に大変評判の良いベーゼンドルファーのインペリアル290がありますので、今日のメインストリームであるスタインウェイのDとは違うサウンドでどのような音楽が出来るか、という事を考えて、あえてこの楽器を選びました。
 このインペリアルというモデルは19世紀後半のハプスブルグ帝国の皇帝であったフランツ・ヨーゼフ皇帝、作曲家のブゾーニなど、19世紀後半を体現した人物と縁のある楽器です。
 とにかく巨大な箱を持ち、豊かなソノリティーをもつ割には、ある音域で音が薄くなったり、強弱の変化が出なかったりという様な、かなり癖のあるじゃじゃ馬の一面もあります。それも味わいの1つです。
 昨年はベートーヴェンの親しい友人であったモシェレスの、今年は弟子であったツェルニーの作品を、Naxosの為にレコーディングしたのですが、そこでベーゼンドルファー290を使用しています。そういった流れから、同じモデルでベートーヴェンも演奏してみたいと思いました。一台として同じインペリアルは存在しないと言われますが、良好なコンディションであることを期待している所です。


ベートーヴェンは何を考えて作品を残していったと思うか

 彼は自然を愛していた人だということです。自然への愛と神への感謝。人類や人間性への信頼。
 ベートーヴェンは、人間は自然に帰るべきであるという考え方を持っていました。その自然というのは人間ひとりひとりが持っている本来の姿といった深い意味も含んでいると思います。かなりルソー的な考え方に近いかもしれません。
 そして彼の作品は未来の聴衆に向けて書かれていたのではないだろうか、と言われています。特に晩年においては、50年後、100年後に聴いてもらえるような作品を作っているという意志を、確かに感じます。
 作曲する時には複雑な事柄や様々な斬新なアイディアを、なるべく普遍的でわかりやすい方向になるよう、余計なものを削って、時間を掛けて組み立てていくという人でした。意志的で、強い理念をもってやっていたのだと思います。特に弦楽四重奏曲やピアノソナタで実験的な事を試したり、色々と模索していた訳ですが、そのような時でさえ、独りよがりにはならない、熟考の末の結果であり、必ず語法を理解する手がかりを与えてくれています。
 いつの時代もそうだったと言えるのですが、我々の時代は数多くの問題を抱えています。ただ我々の時代が19世紀と少し異なるのは、問題がより複雑多様になった事、また狭い範囲内だけでなく、地球の裏側の事をも、かなりの詳細まで識ることが出来てしまうという事実です。
 そのような21世紀に、しかも東洋で生きている私達にとって、ベートーヴェンの音楽はどのような意味があるのかを、よく考えるのですが、ベートーヴェンの生き方、作品を知れば知るほど、彼が存在したということ自体、そして作品自体に重要なメッセージが多くあると感じています。
 ベートーヴェンは古典的な作曲家ですが、新しい時代を切り開いた作曲家でもありました。彼が生きた19世紀の始め、ヨーロッパ社会全体にアメリカやフランスの革命の影響が強く作用していました。音楽家、芸術家にとっても、それまで貴族の一使用人だった存在が、より「個人」としての強い存在、もしかしたら世の中をも動かすかもしれないような存在になりつつあった、面白い時代だったであろうと思います。
 57年の人生の中で、恐らく考え方の変遷はあったに違いありませんが、ベートーヴェンは政治的な動き、当時の先進的な思想、例えば個人の自由や共和制といった事柄、また社会問題にもにも大きな関心を持っていました。哲学的にはギリシャ哲学やインド哲学を愛したと言われています。
 人間性の回復、自然への回帰、人類相互間、民族間の信頼と調和、世界宗教間の対立の緩和、自然環境と人間の共生共存、核・原子力の問題の解決、世界(&国内・地域レベルで)経済のバランスの取れた維持又は発展、経済格差の是正といった、一部ベートーヴェンの時代にはまだ大きな問題として浮上していなかった(しかし実際には既にあったであろうし、芸術家としての本能から未来を嗅ぎ取っていたであろう)事柄も含め、多くの問題に対しての1つの解答、生き方や考え方へのヒントのようなものを、ベートーヴェンの音楽が与えてくれると、個人的には思っています。
 最高度に西洋的(=ベートーヴェン)なものは、最高度に東洋的なもの(=東洋の伝統的な自然との共生の思想)との接点、共通項が多くなるのではないかと考えます。「音楽」はマス・ゲーム的に使われると、ヒステリー的な熱狂、そして思想統制に繋がりますが、個人一人一人が、内容ある芸術作品を深く味わい、理解しようと能動的に「聴く」事により、個人の中の調和が生まれ、それが世界への調和へと結びついていく・・・そのような事をベートーヴェンは考えていたのではないかと思います。「心から心へ」という彼の言葉は、きっとそのような意味ではなかったかと想像しています。
これからも様々な解釈が現れ、その時代ごとに、また違ったベートーヴェン像が生まれるのではないかと思います。