Writings


尾道とベヒシュタイン、そしてノスタルジア


広島県の美しい港町、尾道にある広島県立尾道東高等学校に、1906年製の貴重なベヒシュタイン・モデルEのフルコンサートグランドがあり、それも戦前の1930年代からの所有で、学校の宝のように大切にされている・・との情報を聞いたのは数年前になります。しばらくしてその楽器を使って演奏会をする機会があり、更に「このベヒシュタインを使ってレコーディングをしなければならない」と思うまでには、それほどの時間はかかりませんでした。

1930年代、街のいわゆる「旦那衆」が、尾道の文化の為に、子供達の教育の為に、という願いを込めて、当時の貨幣価値で家が何軒も建ったであろう「輸入物の高価な楽器」を、東高等学校(当時は広島県立高等女学校)に寄贈した、と聞きました。当時ベヒシュタインのコンサートグランドは宮内庁、総理大臣官邸や、東京藝術大学の奏楽堂など、日本全国でもわずかな台数があったのみと言われます。そのような決断をした当時の人々の熱意、決断は非常に先見の明があったと思わざるをえません。

事実80年以上が経過した今でも、名器としての魅力はいささかも失われておらず、かえってその価値が高まっているほどなのですから。

何度か尾道を訪問する度に、この町が古いものを大切にする心、文化、歴史を持っている事に感銘を受けました。そして、その風土が培った歴史を刻んだ、この楽器の魅力をできるだけ引き出してみたい、そして演奏会で使うだけではなく、録音を作り、記録を残したいと考えるようになりました。

ベヒシュタインは1853年創業のベルリンのメーカーです。この1853年という年は、スタインウェイがニューヨークで産声をあげた年でもあり、またライプツィヒでブリュートナーが創立された年でもあります。ベルリンという土地柄、第2次世界大戦前後は歴史に翻弄され、一時はその存在すら危うくなったと言われていますが、現在は完全なリバイバルの時代に入っています。20世紀後半には一時アメリカのボールドウィンの所有になっていたこともありましたが、現在はドイツの資本に戻り、最新型のコンサートグランド・モデルDをはじめとする、ハイ・クォリティーな楽器を作り続けています。とはいえ、1930年代位までのピアノの質は圧倒的というのが、ピアニストの間では通説になっており、未だに20世紀初頭の楽器を、自宅で愛用しているピアニストが多くいます。特にロシアでは愛好家が沢山いて、未だに古いベヒシュタインをよく見かけます。黄金時代には、グランドのみならず、アップライトピアノの出来も素晴らしく、かつて私も戦前のアップライトの音色の豊かさ、パワーに強い印象を受けた一人です。

創業者のカール・ベヒシュタインはもともとフランスでピアノの製造を学び、ドイツに帰国。創業間もなく、リストをはじめとする音楽家の支持を得て、19世紀の終わりには王侯貴族の宮殿やサロンに収められるピアノの筆頭格となりました。

1880年代には世界最高のピアノとして、当時最も高名なピアニストの一人、ハンス・フォン・ビューローが、エラール、プレイエル、ベヒシュタイン、スタインウェイを挙げています。ドイツの首都・ベルリンを代表するピアノとして、リスト、ワーグナー、ブゾーニ、シュナーベルなど、愛用した音楽家の名前を挙げるときりがない程です。20世紀前半までの、綺羅星の如く輝く世界的な名手と結びついています。

個人的には、アメリカ留学時代に薫陶を受けた、師匠の故ホルヘ・ボレット先生が、アメリカではボールドウィン・アーティストであり、ヨーロッパではベヒシュタインを使っていたこと、英国デッカ社でのレコーディングでベヒシュタインを多用したこと、スコットランドで彼が使っていたモデルEN280を弾かせてもらったこと、などが、10代の若い頃の思い出としてあります。(1980年代当時、ボレット先生はホロヴィッツ、アラウなどと並んで、最後のロマンティック・ヴィルトゥオーゾの一人、と言われていました。当時はピアノ録音の殆どにスタインウェイが使われる時代でしたから、ベヒシュタインの独特な音も、彼のレコーディングを更に魅力的なものにした事は確かです。)

さて、この尾道のモデルEは、1953年にイギリスの名ピアニストのソロモン(カットナー)が来日した際に、広島公演で使用したとあります。当時の舗装されていない悪路を、トラックに乗せられ、運ばれたのでしょう。

このピアノの鍵盤アクションの精度は、現在の新品ピアノに比べると決して高いとは言えず、ダイナミクスの変化、特に弱音のコントロールや連打性にはやや「制約」があり、また音域によっては特定の音が強くなったり弱くなったり、不揃いな部分があります。それでもなおボディー自体、響板の鳴りの美しさ、ダイナミズムの一部は、この録音でも十分聴きとっていただけるものと思います。1906年製造時の、この楽器のオリジナル・アクションの一部には、ジョイント・システム(エクステンション・システム)というものが使われていたようです。1990年前後にオーバーホールされた際に、その部品は供給不可能ということで、現代のピアノと同じシステムに直されてしまったのが少し惜しいところですが、その点以外は、オリジナルに忠実に、丁寧な修理がなされているようです。

あえて比較をすれば、現代の優れた楽器は、デジタル時代にふさわしく、より緻密な制御が可能で、コントローラブルであり、強弱や表現の幅は大きく何でも出来るのですが、面白いことに、古い楽器に見られる「制約」から生み出される何かが、演奏技術そして表現にとって案外重要な部分であったりもするのです。ちょうど音楽(作曲)においても、人生においても、「制約」が新たな視点、考え方を与えてくれるように・・。

特に古いベヒシュタイン独特の和声感、深みのある、しかし明るい音色、気品のある佇まいなどの個性、特徴は他に代えがたいものです。常日頃私たちピアニストが演奏する作品の多く、特にロマン派以降から近代初期に至る作品の多くには、背景として「ノスタルジア」があります。現在を生き、未来を志向する方がはるかに健全ですが、過去を慈しむこと、それ自体が作品の本質と深く結びつき、関わっていることが多いのです。そしてこのベヒシュタインは、楽器自体が既にそのような「声」を持っているのです。



曲目についてひとこと

このピアノが作られた1906年(明治39年)は、日本では日露戦争直後の好景気の時代、ヨーロッパでも第一次大戦で大打撃を受ける前、まだ19世紀の生活様式、雰囲気を色濃く残した時代だったはずです。

このCDに収められている曲目については、1906年前後に生まれたピアノ作品の中で重要と考えるものを中心に選びました。ドビュッシー、ラヴェル、スクリャービンは、丁度その当時、1903-1908年前後に作曲された作品です。それにベヒシュタイン・ブランドの確立からは切り離すことのできない、リストとワーグナーによる作品を加えました。創業されたばかりのベヒシュタインを認め、終生愛用したリストとワーグナーへのオマージュです。またウィーン生まれで、普通ならばウィーン製の楽器のサウンドと結びつけたくなるシェーンベルクも、1901-1903年前後にはベルリンに住んでいたということもあります。なおブリュートナーを所有していたドビュッシーも、実はベヒシュタインも好んでおり、絶賛した言葉を残しています。いわば「同じ時代の空気を吸った作品とピアノを」と考えてプログラミングしました。


ワーグナー=リスト イゾルデの愛の死

編曲の達人、リストによる実に素晴らしい編曲。無駄の無さ、本質から逸脱しない絶妙な趣味、沢山の声部からの重要な声部だけを選ぶテクスチュア選択の確かさ、音域バランスの巧さ・・・ワーグナーが書いた全ての楽器、声部をピアノに移し替えることは不可能ですが、時には大胆にソプラノ声部なども消しつつ、ピアノ作品として最高度に高貴な作品に仕上げた手腕は特筆されます。編曲作品が嫌いだったリヒテルが、この曲だけは弾く、と言っていたのも頷けます。原曲の楽劇「トリスタンとイゾルデ」完成からそれほど年月が過ぎていない1868年に出版されました。ワーグナーは世界の中心が自分、自分の作品である、と考えていた、とてつもないエゴイスト、幻想主義者でしたが、また同時に冷徹な現実主義者でした。当然それは幻想に過ぎないのですが、それほどまでの自己愛、陶酔、作品への思い入れ、というものは、ある種の芸術においては不可欠の部分でもあります。この時代の音楽の究極のモデルの一つです。


ドビュッシー 喜びの島

ドビュッシーは、ラヴェルや他のフランス人作曲家と並んで、楽曲の名前、タイトルに、こだわり抜く人でした。これは17世紀の時代からの伝統とも言えるのですが、この「喜びの島」はギリシャ神話を題材とした、ワトーの有名な絵画、「シテール島への船出」にインスピレーションを受けたと言われています。風刺、諦めの感情、静謐さが多くの作品に感じられるドビュッシーにしては珍しく、全編ポジティヴで光あるムードに包まれている曲です。この作品と「仮面」は、もともと「ベルガマスク組曲」の一部として作曲されたらしいのですが、最終的には独立した作品として出版されました。曲の始めから終わりまで、柔軟かつ生命力に満ちたリズムが使用され、精緻な技法、細かな音群が多用される様は、ピアニスティックでもあり、同時にオーケストラ作品を彷彿とさせます。1903年から1904年にかけて作曲され、出版は1904年。


ドビュッシー 映像 第2巻

ピアノのための「映像」は2巻からなりますが、「版画」や上記の「喜びの島」などと、「前奏曲集」の中間の時期に作曲された作品です。この第2巻は、1903年頃から1907年頃までの作曲で、1908年に出版されました。三段譜を使っていることもあり、少しモダンになっている印象を与えます。三段にまたがる記譜法によるピアノ楽譜は、音域の遠近法(各オクターブの距離感)や、複合的な要素、異なるモティーフを視覚化しやすく、空気感、広がりを出しやすいのです。

「葉ずえを渡る鐘の音」「そして月は廃寺に落ちる」「金色の魚」というタイトルを見ても、我々東洋人にも親しみやすく、俳句や和歌の豊かなイメージにも通じていますし、形式的にも緻密で隙のない造りになっています。ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌなど、ドビュッシーが気に入っていた詩人たちの言葉のイメージを、音楽によって更に純粋化した感があります。


ラヴェル 夜のガスパール

「夜のガスパール」は、言わずと知れたベルトランの詩集による、ピアノ作品史上屈指の傑作です。勿論このタイトル自体はラヴェルの創作ではなく、ベルトランがつけたタイトルを借用しています。オリジナルの詩集は、全く万人向けではないのですが、この詩集の完成度と、ただならぬ世界観は、ラヴェルの作品にも受け継がれ、そう簡単に近づけない精神的領域に到達しています。

この作品だけを世に残して亡くなった孤高の詩人ベルトラン。死後にボードレールやマラルメなどが絶賛したとはいえ、フランス文学の中で、作品数の極端な少なさ、またテーマの幻想性もあり、古典文学の王道を行く作家たちにはおそらく含まれないのですが、語句が示す可能性の広がりと深みは、ダンテ、シェイクスピア、ユーゴーなどの詩人にも劣らないと思います。

ラヴェル作品の楽譜に関しては、近年三善晃版、ペルルミュテール版、また本国フランスでは新しいDurand版など、優れたエディションが次々と出版され、少なくともテクニカルな意味ではラヴェル作品への理解が飛躍的に進みました。またメシアンによるこの作品の美しい分析が野平一郎氏による名訳で、日本語でも読むことが出来ますので、興味のある方にお勧めしたいと思います。1908年に作曲され、1909年出版。


スクリャービン ソナタ第5番 作品53

スクリャービンの作品も、かつては旧ソ連のピアニストたち、西側では一部のピアニストが手がけるマイナーなイメージが強かったのですが、特に1980年代以降、状況は全く変わりました。しかしスクリャービンは、本質的に大衆化してはいけない、ある部分極めて退廃的でimmoralな作曲家であり、個人的かつ秘密主義的なところがなければ・・・と私は感じます。別の言葉で言えば「毒がある」とでもいうような・・・。

かつて師匠のボレット先生が、「スクリャービンは興味深い作曲家だが、オール・スクリャービン・リサイタルは難しい。演奏会の半分が限度だ。」と仰っていたことを思い出します。それは技術的な意味ではなく、人間の内面に関わることだからだと思います。

スクリャービンの優れた作品には、天才的で、独特の精神世界、殆どカルト的と言っても良いような魅力があります。「法悦の詩」作品54とほぼ同時に書き進められたこのソナタ第5番は、彼の最も成功した作品の一つです。1905年頃から1907年にかけて創作され、1908年に出版。


シェーンベルク 3つのピアノ曲 作品11

記念碑的な弦楽四重奏曲第2番作品10(第1楽章から第3楽章までは一応中心の調性を持ち、第4楽章は無調。第3、第4楽章にはソプラノが加わる)の後、この作品11から完全に無調の世界に入った、表現主義の作品と言われますが、実際に、この曲を支配するのは後期ロマン派の芳香、余韻から、シェーンベルク自身の人生における危機的状況と崩壊(画家Richard Gerstlの自殺事件)であり、最も個人的な表現が、客観的な楽譜表記によって表されている作品です。9度音程や不協和音程、特定のモティーフが何度も出てくることにより、混沌への志向、執拗に繰り返されるトラウマからの逃避への願い、嘆願、連想、追想、強迫観念が強く感じられます。しかしシェーンベルクの素晴らしさは、その様な中でも、背後に、冷徹な自己批判、客観性がいつも存在し、より良きもの、強く高い精神性への希求が感じられることです。 1909年に作曲され、1910年に出版。1924年に改訂。




今回の録音の実現に当たって、特に様々な面からご尽力下さった、NPO法人おのみちアートコミュニケーションの大崎義男氏、久保田チェンバロ工房の久保田彰氏、三原市芸術文化センターポポロ、そしてこのピアノを快く使わせて下さった広島県立尾道東高等学校の関係者の皆様には大変お世話になりました。この場を借りて心より感謝申し上げます。


上野 真
(2016年 4月 京都にて記す)