Writings


「美しい音」について

(レッスンの友2007年11月号より)

◆美しい音は、相対的なものから導かれる

「美しい音」の前提条件は、言うまでもなく、最高のピアノ、最高の調律と調整、プレーヤーに合った最高の椅子(冗談でなく…)、ホールの音響(特にステージの床の質が最も重要ではないか)などであり、本来はその後に、ピアニストの出す固有の音という問題が出て来る。

あるピアニストの出す音というのは、その人間性、人格と密接に結びついているものであり、特に成熟してからの、殊に三十代以降のピアニストの音というのは、演奏している人の哲学、美学、文化、環境、受けた教育、感性、人生観などが如実に反映されるものである。それは、一般に言われる「個性」等という次元のものではないように思われる(現在頻繁に使われる「個性」しという言葉は、殆どmanipulation……意識的な操作、を含んでいる。時によっては恣意的なものである)。「美しい音」と言うのは、芸術家、音楽家が、一生掛けて育てていくものである。また「美しい音」とは、ある特定の作品がもつ、固有の性格を表現するのに必要な手段であるべきであり、それを可能にさせる音の階調の段階、グラデーションに秘密があるのではないかと思う。

音という言葉は、日本語では単独の「音」の意味の他に、「響き」、そして「音楽全体」のことをも示すように感じられる。ToneなのかSoundなのかSonorityなのか.....あるいはドイツ語のKlangなのかMusikなのか.....。
美しい音は単独で存在するものでなく、相対的なもの、音が複数あるところの関係性から導かれるものである。そして初めて音楽Musicになる(この考え自体、もともとはかなりドイツ的な考え方だが、他国の音楽家たちの多くも、結局はここに行き着く.....)。

ただ単に純粋、機械的な、「きれいな美しい音」が存在するという考え方は幻想である、と私は思う。初歩的ではあるが、一つの音の例を挙げてみたい。ピアノのいわゆる真ん中のドの音だが、ハ長調の音の場合と、イ短調の音の場合、変ロ長調またはト短調の音の場合とは、全く意味が違ってくる。それだけでなく、同じ調性だったとしても、カデンツの時の音なのか、フィギュレーションの16分音符の一つなのか、強拍にあるのか、弱拍の、それも拍の前半にあるのか、アウフタクトにあるのかで違ってくる。その音が含まれる音型がクロマティックなのか、全音階なのか、また上昇するのか、下降するのか、またその上がり方下がり方がジグザグなのか、滑らかなのか、リズム、旋律、和声の中でどのような意味を持った音なのか……。ポリフォニーの場合、内声にあるのか、外声にあるのかでも違う。ダイナミクス、音の長さが同じであっても、は異なる作品、異なる部分のキャラクターが求める音は違ってくる。

◆高みに達した芸術は狭い文化の境界線を越える……

かつてほどではないものの、国別のピアニズムのスタイルによっても、「良い音」に対する許容度、感じ方、考え方は違うように思われる。それはそれぞれの民族が想う「音楽の志向性」と密接に結びついている。
一般的な例を挙げると、中央ヨーロッパの、特にドイツ人やオーストリア人の考えるものと、スラブ系の、特にロシア人などがよしとするものとは大分開きがある。ロシア人は特に、音楽に強い詩的エモーションを求めることが多い。時に形式を逸脱しても、音が美音でなくても、強い真実味のある感情があれば、それを許容する場合がある。ドイツ人、あるいは中央ヨーロッパ人は、ギリシャ古典に根ざしたドラマ性、感情も重要視するが、それ以上に音楽に形式感、道徳観、モラルや倫理的側面を求めると言ったら、古い考えと思われるだろうか……。ハンガリー人やフランス人の耳、感じ方は、当然また違うと思われる。

しかし流派や伝統が異なっていても、非常な高みに達した芸術は、その狭い文化の境界線を超える。

今まで実際に聴いたピアノの音でとても美しかったのは、クラウディオ・アラウ、ヴラディーミル・ホロヴィッツ、ベネデッティ・ミケランジェリ、などである。自分のピアノを持ち込んだりしないのに、素晴らしいサウンドをいつも引き出していたという点で、アラウは最高のピアニストである。アルトゥール・ルービンシュタインも、そのような音の伝達方法を持っていたと思う。彼らは、エドウィン・フィッシャー、ヴィルヘルム・ケンプなどと共に、ブライトハウプトの重量奏法(彼の著作は、ドイツ本国でも絶版らしい)が脚光を浴びた時代に、ドイツ的な音楽観を基にした教育を受けた最後の世代である。

◆他の楽器の音について

ハイフェッツのサウンドはもちろん最高のものだが、ヨーゼフ・シゲティ、アードルフ・ブッシュ、カザルスやマルセル・モイーズ(名フルート奏者)など、普通の尺度からは決して美音とは言われないアーティストたちが、実は音楽的には最も「美しい音」だと思っている。例えばシゲティは、様々な伝統的な指使い、ボーイングを誰よりもよく知っていたが、作品の精神に忠実と思われるやり方があると思ったときは、難しくてもあえてそちらの方を選んだ。
時には不器用に聞こえる、しかしそれが音楽的に必要ならばそれを選択する、というのは、ややドイツ的な観念論も中には入ってくるが、正当である。 ピアニストの場合、この部分は、左右の手のアレンジの仕方や指使い(特にレガートの概念について)に如実に表れる気がする。大まかに言って、中央ヨーロッパ系のピアニストの方がアレンジは控えめで、ロシア人やフランス人は、音楽が流麗になるのであればアレンジを好む傾向がある(今日では単純に国別に一括りにはできないが)。

◆オーケストラの音について

同じく極度に単純化した話になるが、同じドイツ語圏のオーケストラなのに、ベルリン・フィルの音と・ウィーン・フィルの音とを同じホールで聴くと、非常に異なって聞こえる。イギリスのオーケストラ、アメリカのオーケストラ、オランダのオーケストラなど、すべて独自の傾向を持っている。
比較してどちらの音がより良いか、という問題ではなく、やはり音楽の解釈として素晴らしいかどうかが一番大事なところであろう。
音の輝かしさやヴォリュームといった点では、ベルリン・フィルの音とは比べるべくもないが、例えばかつてチェリビダッケが指揮したミュンヘン・フィルのサウンドは(特に晩年、あまりにエキセントリックな部分が強調されることもあったが……)、作品の構成美を引き出す色彩、テクスチュアの透明性、リズム、イントネーションなどのニュアンスといった点で、独自の美しさと説得力を持っていた。そのようなテクスチュアの幾層もの構造をピアノでも再現できれば、本来の意味で理想的なサウンドと言えるのではないか。

◆演奏する作品にふさわしい音を見つけ出すために

水平なライン(旋律)と、縦の層の組み合わせ(和声)、リズムのしなやかさなどが、全体の中の、ある特定な音に、固有な性格を与える。大事だと思うのは、沢山ある「音の洪水」の中で、重要な音とそれほど重要でない音との区別をし、いくつものサウンドの段階を作るということである。

ピアノという楽器の場合、音の最初の発音(発声)と、最後の音の止め方(放し方)が、特に重要である。指先と鍵盤との接触のさせ方、手のポジション移動とフィンガリング、それをフレーズに沿って自在に動けるようにさせるための関節、手首、肘などの柔軟性、またペダルの使い方(時にはわざと混ぜ合わせる……しかし前提条件としては、音域ごとにクリアーなテクスチュアが聞こえることと、重要な音に的確なアクセントが感じられること)、音域ごとの鳴らし方、7オクターブ以上ある音域ごとの性格付けの差、ポリフォニー、和声の場合は構成音のバランス(多声部が「同時に」弾けていないことがとても多い)に敏感な感性が必要である。

鍵盤の下がるのは約10ミリである……その10ミリの中で、できる限り色々な色彩を作り出せるように、いわゆるアフタータッチを感じ取り、様々なアタックの変化付けをする。本当のクライマックスやエモーションの強い時を除き、鍵盤下の棚板を(長い時間)強打することをなるべく避ける。

基本的なことが習得されれば、後はその基本の中での多様性を追求すればよい。それには、直感、センス、インスピレーションと同時に、長期間対象に関わり、探求を継続する関心の強さ、誠実な仕事、などがやはり必要である。長い時間様々な形での努力(ピアノの前に6時間座り続けることとは限らない)をすることによって、演奏する作品にふさわしい音を見つけ出すことが少しずつ可能になってくると思う。

*ルドルフ・マリア・ブライトハウプト
(Rudolf Maria Breithaupt 1873~1945)
ドイツの音楽批評家。主著「自然なピアノ演奏法」(1905)は、ピアノの演奏法を心理学的、生理学的に基礎づけ、体系化し、ピアノ教育の改革に大きな影響を与えた。